「マスターズ」制覇を狙える5人のルーキー ティレル・ハットン編
2017年 マスターズ
期間:04/06〜04/09 場所:オーガスタナショナルGC(ジョージア州)
タイガー・ウッズの伝説的勝利から20年 1997年の当事者たち
黒人差別とマスターズ
その1年前、あるいはそのまた1年前のことだったかもしれない。彼らはオーガスタにあるゴルフダイジェストの家で食事を摂りながら、ゴルフにおける「オープン」と「インビテーショナル」に関する議論を聞いていた。
突然「インビテーショナルはね」と小声で切り出したウッズは、決して批判めいた口調ではなく、事もなげに「オープンの“逃げ道”だったんだよ」と言ったのだ。
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ウッズはアマチュアとしてオーガスタで1度予選を通過し、1度予選落ちを喫している。マスターズでアマチュア選手が宿泊を許される通称“クロウズ・ネスト”、クラブハウスの屋根裏部屋に滞在したタイガーは、眠りにつけずに夜中に起き上がると、見知らぬ廊下をさまよい、有名な幽霊たちと心を交わした。「あそこの影は、壁じゅうを転げ回るんだ。あの屋根裏はお化けが出るんだよ」とタイガー。
電気をつけるのを恐れたタイガーは、偶然にも、よろめくようにしてチャンピオンズロッカールームへと入った。暗闇の中、1956年の王者であるジャッキー・バークのロッカーの前で腰を下ろすと、自身の遍歴を振り返ったという。
ウッズが生まれたのは、リー・エルダーが40年続いた人種の壁を打ち破り、黒人選手として初めて「マスターズ」に出場した1975年だ。1972年に過去1年間のPGAツアー勝者が自動的に「マスターズ」の招待資格を得られるようになったことを受け、チェアマンのクリフォード・ロバーツが、かつてオーガスタのキャディだったジム・デントが近くPGAツアーで優勝して「マスターズ」の出場資格を得てくれることを願うと述べ、プレスに歓迎されたのは1974年のことだった。
1894年と1902年に生まれたロバートとボビー・ジョーンズは、特に同年代に生まれた平均的な米国人と比較して頑迷だった(白人主義を強調した)わけではないが、かといって人種差別撤廃に積極的とはいえなかった。それは彼らに限ったことではない。全米プロゴルフ協会が、規約にあった「白人のプロゴルファーであること」という忌まわしい条文を取り除いたのは1961年のことであり、これにより、チャーリー・シフォードのメディア向けプロフィールには、「1948年プロ転向。1961年PGA加盟」という悲しき文言が並んだのである。
もちろん、「マスターズ」王者たちがシフォードやその他の黒人選手を招待することは可能であったし、実際に一度はその話が持ち上がった。1969年に2年前の「グレーターハートフォードオープン」を制したシフォードが、「ロサンゼルスオープン」を制覇した際、1959年の「マスターズ」王者であるアート・ウォールJr.が同僚とシフォードに対する支援を先導した。しかし、チャーリーが獲得した賛成票は、ウォールの投じた1票だけだった。
1997年、エルダーは「マスターズ」の日曜日にやって来た。その時点で、これから何が起ころうとしているのかは、誰の目にも明らかだった。シフォードは来場しなかったが、タイガーにファックスを送っていた。「常にピンを狙ってはいけない。注意深くプレーすること。賢くあること。あのコース(に必要なこと)をプレーすること。しかし、その時が来たら解き放て。手綱を緩めるのだ。力強くあれ。自分自身であれ」というメッセージだった。