マスターズ
オーガスタナショナルGC(ジョージア州)
2017年の「マスターズ」は、アーノルド・パーマーが死去してから初めての開催となる。プロゴルフの礎を築いたレジェンドは、オーガスタナショナルGCで通算4勝をマークしただけでなく、多くのプレーヤーに影響を与えて生涯を終えた。彼らはキングからどんな言葉を授かり、その振る舞いから何を感じ取ったのか? 書籍『アーニー:アーノルド・パーマーの人生』の中の主要人物たちが語った、彼らにとっての「アーノルド・パーマー」が持つ意味である。
米国ゴルフダイジェスト社提携
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※コピーライト© 2017年 トム・キャラハン。ハーパー・コリンズ出版許可のもと転載。
フィル・ミケルソン
「僕はアマチュアとして『マスターズ』に初出場した時、アーノルドの誘いを受けて初めての練習ラウンドを彼と一緒にプレーしたんだ。僕は彼がギャラリーに目を配り、皆に笑顔を振りまいて、両手でサムアップする姿を見ていた。彼は本当によくギャラリーのことを見ていた。そして僕に言ったんだ。『彼ら(ギャラリー)があそこにいないと思って歩いてはいけないよ。彼らはいつも目の前にいるんだ』とね」。
「ツアーは1996年にギャラリーにサインをするためのエリアを撤去したことがある。理由は分からなかったけれど、 長続きはせず、サイン用のエリアがなくなったのはあの一年だけだった。あのエリアは練習日の僕にとって、とても重要なものだったんだ。プレーよりも練習の方が、きついからね。集中する度合いは試合も練習も同じだけど、(練習は)3倍の球数を打つからね。昔、僕にも練習日は人を(サインをするのを)避けるようになっていた時期があった。でも、そんな自分の心持ちが好きになれなくてね。だから、サインのための時間を取って、メリハリをつけるやり方は、僕にとっては大きかったんだ。僕はアーノルドの勧めもあって、自分のサインを読みやすく書くよう努めている。彼はこう言っていたよ。『時として、とある個人に対し、自分の印象を残せる時間はほんの数秒しかないこともある。その時間をしっかり使うんだ。あの人々のおかげで、我々はゴルフをプレーすることで食っていけるんだ』」。
「彼は常にお手本となる人物だった。その事実について、何ひとつ偽りはなかったんだ」。
ベン・クレンショー
「一度、ベイヒルの練習レンジで、デイブ・マーの隣で打っていたことがあって、アーノルドもそこまで遠くない位置にいたんだ(クレンショーはそのウォームアップでドライバーの調整に手間取っていた)。僕はマーに『デイブ、彼は(クラブ調整用の)鉛テープを持っていないかな?』と聞いたら、彼は『冗談だろ。あそこの男は朝食に鉛テープを食べちゃうくらいなんだぞ』」と言ってね。アーノルドはノコギリやらハサミやらが詰まったキットを取り出して、時間までに僕のクラブの重量を整えてくれたんだよ」。(その後、パーマーはクレンショーに「料金は1ドル50セントだ」と言ったそうだ)
ジョーダン・スピース
「マスターズで優勝した(2015)年のクリスマスの前、僕はオーガスタナショナルへ行って、2日間、父とプレーしたんだ。最初の1年間はグリーンジャケットを持って帰れるけれど、その後は(オーガスタへ)戻さなくてはいけないのは知っているよね。『あと少しでグリーンジャケットを返さなきゃいけないんだ…』と思って、僕と父はクラブハウスの2階へと上がり、チャンピオンズロッカーにある自分の名前を見に行ったんだ。一度きりしかない、その瞬間の感動を一生記憶に残したいと思っていた。でも、自分が誰とロッカーをシェアするかなんて、皆目見当もつかなかったし、誰も教えてくれなかった。それがどうだい、その人物はアーノルド・パーマーだったんだよ」
ニック・プライス
「(妻の)スーと私がグリーンカード(米国永住権)を申請したときのこと。私は米国の大統領と知った仲ではなかったから、アーノルドに私の紹介状を書いてくれないかと頼みに行ったんだ。すると彼は、これ以上ないほどに私のことを称賛する手紙を書いてくれた。私はINS(米国移民帰化局)の役人が、書面の一番下にアーノルド・パーマーの署名を見つけたときの表情を見逃さなかった。その署名を見た瞬間に、ハンコをおされたんだよ。アーノルドは私を見る度にみんなに言ったものだよ。『私がニックをこの国に入れたんだ』ってね」
「私が最後に彼に会ったのはオーガスタだった。部屋の隅に座っていた彼は、私のことを呼び寄せ、私の手を握りしめながら『ニック、会えてうれしいよ』と声をかけてくれた。彼は『一日中老人たちに囲まれているんだ』と言ってね。私だってもう若くはないけれど、当時彼に会いにきた人間のなかでは私が一番若かったんだ。『みんなにも私のことを忘れないよう言っておいてくれ』と話していたよ」。
トム・ワトソン
「初めて彼とプレーしたのは私が15歳のときだった。カンザスシティの多発性硬化症患者のためのチャリティラウンドで一緒にプレーしないかと言われて、胸が躍ったね。私のコーチだったスタン・サースクも同じ組で、始まってしばらくは私も良いプレーができたんだ。フロントナインは『34』でアーニーと同じ。ただ、バックナインでも彼は『34』だったのに対し、私は『40』だった。それでも彼は私のことを程よく褒めてくれて、恩着せがましくすることなどは一切なかった。最も寛大なやり方で私を高めてくれたんだ。あの日、彼は私を本物の選手のように扱ってくれた。本当に多くのことを学んだよ」
「マスターズの週の最後のチャンピオンズディナーでは、彼はとても衰えている様子だった。彼は明らかに、自分の肉体が置かれた状況を受け入れられないでいた。彼は誰もが知っているような方法でそれに立ち向かっていた。戦っていたんだ」
ロリー・マキロイ
「ヨーロッパ人にとってのアーニーは、米国人にとっての存在とはちょっと違うんだ。セベ・バレステロスが我々にとってのアーニーだったんだろう。皆そう言うし、それは本当のことだよ。アーニーが大衆にゴルフを広めたように、セベも僕らにゴルフを広めたんだ。でもね、僕はアーニーを思いながら育ったわけではないけれど、米国へ来て、彼がゴルフに対して何をして、ツアーにどのような意味を持たせたのかを学んだ。彼の試合に出ることは名誉なことだった。彼や彼のゴルフに対する功績を称えるのは素晴らしいことだよ。彼がいなくてもセベはいただろうかって? もちろんいたと思うけど、同じセベではないよね。(パーマーがいなければ)僕らは皆、いまと同じじゃなかっただろう。ゴルフだって同じものにはなっていなかっただろうね」。
(かつてパーマーはマキロイに「何か必要な物があったらここに電話してきなさい。これが私の電話番号だから」と言ったことがある。それに対しマキロイは「ミスター・パーマー、僕の必要なものはもう、すべてあなたから頂きました」と答えた)
ジェフ・オギルビー
「誰かが本当に好きなことに打ち込んでいるのを見ると、それが何であれ、なぜかこちらの気分まで高揚するものだよね。ただ、多くのゴルファーは、なかなかゴルフをエンジョイしているようには見えないんだ。でも、彼の姿はゴルフコースで楽しむ子どものように見えたね。彼はゴルフを楽しむ姿は、他のすべてのことにも波及したんだ。彼がすべての人々に与えた影響は、彼がゴルフをプレーする喜びの幸福な副産物だったんだ」
「若いころのタイガー・ウッズはゴルフが大好きなように見えた。しかしすべてが悪い方向に行く前から、タイガーのプレーから“楽しみ”は消えていたんだ。彼はもちろん上手かったし、勝ってもいた。でも昔とは違っていた。(ゴルフを)嫌っているように見えたとは言い過ぎかもしれないけれど、嬉しそうにプレーしていなかったんだ。ただプレーするためにプレーしていたようだった。パーマーは全盛期のプレーを失ってなお、喜びを失わなかったんだ」
タイガー・ウッズ
「僕はいつだって、ゴルフに限らず、何のことでも彼と話すことができた。彼は時間をかけて話を聞いてくれたし、彼が考えることを誠実に、そのまま話してくれた。彼は人を心地良い気分にさせる術を心得ていた。そしてアーノルドは、アーノルド・パーマーでいることを楽しんでいた。彼よりも上手くそれをやる人はいなかったね」。
(パーマーはかつて、「タイガーは父を失ったとき、自分自身も失ってしまったんじゃないかと、私は思う。私が彼に望むのは、選手として帰って来るのではなく、男として帰ってきて欲しいということだ」と話した)
バッバ・ワトソン
「(2016年3月)僕は背中に少しハリを感じていてね。夏場のオリンピックのことも考慮して、その年のベイヒル(アーノルド・パーマー招待)は棄権するのが責任ある行為だと思ったんだ。ただ、尊敬するアーノルドに電話でそれを伝えることはできなかった。僕はカレブ(当時4歳だったワトソンの息子)を連れて行く方が、断りやすくなるんじゃないかと思い、カレブを連れて彼のオフィスを訪れたんだ。でも、いつでもそうだったように、アーノルドは僕に話しやすい雰囲気を作ってくれたんだ。彼はベイヒルのこと、大会のこと、ゴルフについて話そうとはしなかった。彼はカレブや人生について語ってくれた。彼は疲れているように見えたから、元気にしたいと思って、できる限り彼のことを励ましたんだ。それが必要だったかどうかは別にしてね。すると彼はカレブを持ち上げて、自分の膝の上に座らせたんだ。僕がお願いしたわけじゃないのにね」