ジャック・ニクラス インタビュー オークモントよもやま話(下)
2016年 全米オープン
期間:06/16〜06/19 場所:オークモントCC(ペンシルベニア州)
ジャック・ニクラス インタビュー オークモントよもやま話(上)
米国Golf Digest誌6月号 2016 全米オープン特集
◆「私は3m以内のパターの名手」
私は「全米ジュニア」で初めてプレーした13歳の時から、具体的にUSGA(全米ゴルフ協会)の設定に合うように自分のプレースタイルを発展させ始めた。私は当時USGAの責任者だったジョー・デイの求めたようなコース設定についての話をしているんだ。狭くて短く刈り込まれたフェアウェイに接する寛容なラフ、グリーンを囲むラフ、とても硬くて速いグリーン、完璧な試練だね。私が手を焼いた要素の一つはグリーン回りの深いラフだったが、それは克服できないことを意味するわけではないのだ。
ヘイル・アーウィンはラフからの短いショットの名人だったし、その他にも名手はいた。ラフは技術を無効にするという考え方は根拠のない神話でしかない。ただ、私の背中は19歳の頃から何時間もチッピングの練習をすることに耐えられなくなったので、別の方法で対処したのだ。背中はフルスイングの練習には問題なかったので、1ラウンドで15回グリーンをとらえることができれば(それだけフルスイングの練習をすれば)、ショートゲームのプレッシャーを取り除いてくれることが分かったのだよ。私は3m以内のパターの名手だったから、背の高い芝からのチップショットを得意としてなくても生き残ることができた。オークモントのようなUSGAのコース設定は、自分の長所に合っていたんだ。
<< 下に続く >>
◆「オークモントは私にぴったりだった」
私は1962年の「全米オープン」の2週間前に初めてオークモントを見た。何ラウンドか練習で回り、自分にとってピッタリだということが分かった。その後、私はニュージャージーのアッパーモンクレアーで行われた「サンダーバードクラシック招待」でプレーし、ジーン・リットラーが最終ホールで10mのイーグルパットを決めたおかげで、1打差の2位で大会を後にしたんだ。それは私にとって、その年、3度目の2位フィニッシュだった。日曜の夜、バーバラ(夫人)と一緒に車でペンシルベニアを横断した時ほどやる気を感じたことはなかったね。1960年にも61年にも、「全米」優勝まであと少しだった。1962年には、私はあらゆる意味でより良い選手になっていた。コースに着いた時、これは私の優勝する大会だと感じたのだ。
◆「当時300ydは飛ばしていたはずだ」
オークモントではすぐに私の飛距離がアドバンテージであることが明らかになった。私の飛距離はあれらの硬いグリーンに短いクラブで狙うことを可能にした。当時どれくらい飛ばしたかって? 今日の選手たちと飛距離を比較するのは難しいが、平常のコンディションで必要とあらば、300ydは飛ばせたよ。ラウンドでは多くのボールが使い物にならなくなった。私はいつもマグレガーツアーニーのバラタ巻きボール3個でラウンドをスタートしていた。鉛筆を使って、ナンバーの両側に2カ所マークをしていた。それくらい当時のボールは柔らかかったのだよ。1ホールを終えると、そのボールはお役御免。バッグの中で“休憩”することになるんだ。30分ほどすると、ボールは元の形を取り戻す。休憩中は別のボールでローテーションをするのだ。