井戸木鴻樹、かろうじて首位を守る
<七転び八起き、弱点を武器にして戦う井戸木鴻樹>
井戸木の開口一番に、詰めかけた報道陣からどっと笑いが湧きあがった。会見が始まると、「みなさん、お騒がせしました」と深々と井戸木が頭を下げたのだ。男女やステージなどジャンルは違っても、井戸木の全米プロシニア選手権優勝は、1977年の樋口久子による全米女子プロ選手権制覇以来、日本にゴルフのメジャータイトルを36年ぶりにもたらした快挙だ。そんな偉業を達成したにもかかわらず、なんだか悪戯でもしたようにニコニコと頭を下げるところに井戸木鴻樹という男のプロとしてのサービス精神が窺える。
ツアープロとして井戸木が残している実績は、1982年プロ入りの長いツアー生活の中で、関西プロ選手権(90年)とNST新潟オープン(93年)の僅か2勝。樋口久子のように国内で華々しい戦歴を足掛かりにしてもぎ取ったメジャータイトルではないだけに、確かに降って湧いたような「お騒がせ」優勝だったのは間違いない。
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滅多にフェアウェイを外さない正確なショットが井戸木のゴルフを支えていたが、いかんせん飛距離が出ない。勝星が少なかったのは、そのせいばかりではなく、度重なる怪我とパッティングに悩まされていたことも大きかった。これは井戸木にとっての弱点と言ってもいい。
90年に賞金ランキング43位でシード入りしたものの、96年には71位でシード落ち。97年にシード復帰を果たすが、99年にまたもシードを落とす。00年に再びシードを奪還して5年間維持したが、05年にまた落とした。06年に3度目のシード復帰を果たしたものの、07年は肋軟骨損傷で特別保障制度の適用を受け08年シーズンを戦った。だがシードには届かず賞金ランキング149位で終わった。それでもファイナルQT46位の資格で臨んだ09年は賞金ランキング47位で4度目のシード復活を果たすのである。シニア入りを目前にした48歳のときだった。
シード復帰4回は、ツアー最多記録でもある。粘り強い井戸木ならでは記録だろう。このシードも1年で手放すことになったが、その後も諦めることなくQTに挑戦し続け、11年にシニア入りの年齢を迎えた。昨年は、開幕前の腕試しとしてレギュラーツアーの強豪も参戦する岐阜オープンで優勝。さらにシニアツアー最終戦の富士フイルムシニアにも勝った。
「今年も、QTを受けてレギュラーツアーに出ようと考えていたんです」とシニアとレギュラー両ツアーの出場を目指していたと井戸木は言う。しかし、全米プロシニアの優勝でチャンピオンズツアー(米シニア)の道が開けたいま、大幅な軌道修正を迫られている。「二兎を追う者って言いますけど、可能な限り追いかけてみたいと思っています」と、二股も三股もいとわない様子なのだ。
全米プロシニアから帰国後、国内シニアツアー4戦目のスターツシニアの初日に61を叩き出し、シニアツアー最少ストローク記録を塗り替えた。残り2日間は「パターがまったく入らなくなって」とスコアを伸ばしきれずに優勝は逃したが、シニア入りしてからのこうした活躍の裏には弱点を逆手に取る強かさがあった。
弱点その1のパッティングは、「もうパターは入らんものと思って、外れても悔やまなくなったんです。そう思うとプレッシャーが少なくなりますよ」と開き直った。すると全米プロシニアの最終日やスターツシニアの初日のように、気持ち良く入りまくったりする日もあったりするようなった。
弱点その2の怪我は、手根管症候群と言って指にしびれや痛みが出るものだが、手首を使うと左手親指付近に激痛が走る。そのため、リストワークが使えず、飛距離は出ないものの、球は曲がらない。だからフェアウェイを滅多に外さず、狙ったポイントを打っていけるのだ。「ホンマはリストを使ったほうが距離は出るので使いたいんでけど、それは怪我の功名でしょうか」と井戸木は笑う。
七転び八起きの粘り強さ。弱点を武器にしてしまうしたたかさ。今年はこのあと全米シニアオープン、全英シニオープン、そして全米プロ選手権とまだまだ井戸木の檜舞台は続く。