松山英樹出場のプレーオフ第3戦 マキロイが狙う“2つの連勝”
2016年 BMW選手権
期間:09/08〜09/11 場所:クルキッドスティックGC(インディアナ州)
<選手名鑑213>ジミー・ウォーカー(前編)
■ 悲願成就!世界ランク1位のデイを撃破しメジャー初優勝
7月31日、全米プロ最終日の18番、ジミー・ウォーカー(37)は1mのパーパットを決めメジャー初優勝を飾った。その瞬間、両腕を高々と天に掲げたあと、キャディのアンディ・サンダースと胸をぶつけるようなハグをし、互いの体を強く抱きしめ万感の思いを分かち合った。前年勝者で世界ランク1位のジェイソン・デイを振り切ってのメジャー初優勝は、これ以上ないほどの達成感だったに違いない。ウォーカーのメジャー初優勝で、昨年のデイから今季メジャー4試合と、メジャー5試合連続の初優勝ラッシュが続いている。どの優勝もドラマティックな出来事だった。
ウォーカーの劇的勝利にも、いろいろなストーリーがあった。会場となったニュージャージー州バルタスロールGCはウォーカーとキャディのサンダースが出会った、飛躍への原点ともいえる場所だった。
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■ バルタスロールGC 出会いの地が最高の思い出舞台に
2000年8月、全米アマチュア選手権がバルタスロールGCで開催された。記念すべき100回大会が西暦2000年という節目の年に開催されたとあって同選手権は盛大に行われ、参加者は未来を予感させる錚々たる顔ぶれだった。後の09年、全米オープンに優勝したルーカス・グローバー、11年に世界ランク1位に君臨したルーク・ドナルド、世界選手権の勝者ニック・ワトニー、ハンター・メイハンらのトップアマが勢揃いし、史上最強のフィールドと評された。
そこにテキサス州ベイラー大学3年生のウォーカー、ヒューストン大学3年生のサンダースも参加。2人は同じ歳で、同じテキサスの大学で互いの活躍を知っていたが、言葉を交わしたのは初めてだった。ウォーカーはサンダースを「どこからでも決めるすごいパット。あんなパットがしてみたい」といつも思っていたという。一方のサンダースはウォーカーを「美しいスイング。楽に振って飛ばせる選手はめったにいない。あんなショットが打てたなら…」と互いを羨望していた。バルタスロールで交わした本音の会話から交流が始まり、16年後の同地で、メジャー優勝の歓喜のハグをするとは想像すらしなかっただろう。
■ 難病で引退のサンダース 選手からキャディへ
2人は全米アマの翌01年、同時期にプロに転向した。目標は一緒にPGAツアーでプレーすることだった。2人ともどのツアーの出場資格もなく、手始めにミニツアーに参加。5月から9月まではカナディアンツアーのマンデーに挑戦して出場資格を得るなど、転々とする生活を送った。レンタカーやホテルをシェア、食事もほぼ毎晩一緒で、夢に向かって助け合い励まし合いながら過ごす日々が続いた。
03年、2人はPGAツアー下部のウェブドットコムツアーにフル参戦。賞金ランク25位に入れば、翌年はPGAツアーの出場権を獲得でき、目標まであと一歩に迫った。下部ツアーは2月から始まったが、直前の1月にサンダースが自動車事故で頭部を9針縫うケガを負った。少し遅れてツアーに参戦しはじめたが、プレーはできるものの、体調に変化を感じるようになった。翌04年に受けた精密検査の結果、神経の難病である『多発性硬化症』と診断。投薬治療で症状は緩和したが、副作用が生じて、断腸の思いでツアープロ引退を決めた。彼の実力と人柄を知る仲間選手から懇願され、ツアーキャディとして第二の人生を歩みだした。
04年2月、パナマで開催されたウェブドットコムツアー開幕戦でのこと。パットに不安を抱えていたウォーカーは、他選手のキャディをしていたパットの名手サンダースに「申し訳ないけど少しだけヒントをくれないか」と頼んだところ、快諾したサンダース。アドバイスの効果テキメンで、パットは面白いように決まりだし、同ツアーで初優勝を挙げた。
好調は続き、約1カ月後、開幕第4戦目となったルイジアナオープンで2勝目。勢いのまま突っ走り、同年は賞金王に輝いた。選手間投票で決まる最優秀選手にも選ばれた。賞金ランク1位となって、翌05年からPGAツアーにフル参加を決めた。だが腰痛の影響で欠場を余儀なくされ、06年は公傷制度で参加したものの、エリン夫人の母親が乳がん闘病で試合どころではなくなった(14年3月の「選手名鑑111」で既述)。ようやく07年に賞金ランク25位に入り、再びPGAツアー挑戦のチャンスが巡ってきた。「2度目の失敗は許されない。必ずシード権を獲得し翌年につなげなければ」という強い決意だった。その時、真っ先に連絡したのは、キャディとしても実績を積んだサンダースだった。
■ ジミー&アンディ テキサスの親友コンビ結成
コンビを組んで挑んだ初年の08年は、賞金ランク192位でシード権獲得はならなかった。同年12月のQS(クオリファイングスクール=シード権獲得試合)で11位に入り、09年に再びPGAツアーへ。同年の賞金ランクは148位で終え、準シードを獲得。首の皮一枚でつながった。結果はまずまずだったが、手応えを確信した。信頼関係も深まり、サンダースはウォーカー夫妻に紹介されたエリン夫人の親友と結婚。公私ともに一層、距離は縮まり、2人は家族のような関係になった。
ウォーカーに変化が現れたのは2010年5月、地元テキサス州サンアントニオで開催されたテキサスオープンだった。同地に拠点を置くウォーカーにとってはまさに地元。優勝のアダム・スコットに2打差と迫る3位タイは、ツアーでの自己ベストフィニッシュとなった。これを機に成績は上昇。翌11年はトップ10に4回、フェデックスカップランク50位も自己ベストとした。12年はトップ10に6回の自己最多で、ランク62位。13年は、ベスト順位の2位タイを記録するなどトップ10に5回、ランクは自己最高36位。そして新たに年をまたぐ日程で始まった13~14年シーズン開幕戦、9月のフライズドットコムオープン。出場188試合目にして、悲願のツアー初優勝を挙げ、その日から約3年後の今年8月、メジャー覇者にまで駆け上がったのだった。
サンダースのニックネームは「オレンジ・ビブ(Bib=よだれ掛け、胸あて)」。ウォーカーのプレーは“ヴィンテージパフォーマンス”と高評価でも、地味で目立ちにくい。彼の優れたゴルフを、よりアピールしたいと、サンダースは2年前から鮮やかなオレンジ色など派手な色のゼッケンを着用するようになったからだ。メジャー勝者となり、勢いそのままシーズン終盤へ突入。年間王者というビッグタイトルへ向け、ジミー&アンディのコンビネーションはますます冴えを見せそうだ。
- 佐渡充高(さどみつたか)
- ゴルフジャーナリスト。1957年生まれ。上智大学卒。大学時代はゴルフ部に所属しキャプテンを務める。3、4年生の時に太平洋クラブマスターズで当時4年連続賞金王に輝いたトム・ワトソンのキャディーを務める。東京中日スポーツ新聞社を経て85年に渡米、ニューヨークを拠点に世界のゴルフを取材。米国ゴルフ記者協会会員、ゴルフマガジン「世界トップ100コース」選考委員会国際評議委員。元世界ゴルフ殿堂選考委員。91年からNHK米ゴルフツアー放送ゴルフ解説者。現在は日本を拠点に世界のゴルフを取材、講演などに飛び回る。