習志野のエジソン・尾崎将司のアイデアと愛情/昔ばなし
ジェットとジョーの由来は 尾崎三兄弟の物語/ゴルフ昔ばなし
国内ツアーは男女ともに2018年シーズンを終え、オフに入りました。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載は、日本の男子ゴルフ界に偉大な足跡を残したレジェンドプロを特集中。今回は尾崎三兄弟にスポットライトを当てます。尾崎将司(ジャンボ)、尾崎健夫(ジェット)、尾崎直道(ジョー)で挙げた日本のレギュラートーナメントでの勝利数は実に141。スポーツ界でも稀な、歴史的といえるブラザーズです。
■健夫はプロ野球のドラフト指名を拒否
―尾崎将司選手は1947年生まれの71歳。健夫選手は7歳、直道選手はさらに2歳年下です。徳島・海南高時代に春の選抜甲子園で優勝投手となった長男に続き、2人の弟も最初は野球の道を志しました。
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三田村 尾崎の父・実さんは軍隊でパイロットをしていた。ジャンボには妹もいるが、弟2人にとって長男は父親代わりといえる存在だった。ジャンボは絵が得意で、小さい頃は自分で漫画を描いて2人に見せたり、外では自分が引いたリヤカーを、弟たちが押したりという生活をしていた。将司は高校野球で全国制覇、プロ入り(1965年西鉄ライオンズ)もして、健夫も海南高校でエースとして活躍した。甲子園には行けなかったが、ドラフト指名(1971年ヤクルトアトムズ)も受けた。けれど、オファーを断って兄と同じプロゴルファーの道を選んだんだ。
―尾崎健夫選手は18歳でゴルフをはじめ、その恵まれた体格も武器に21歳の時(1975年)にはプロ転向。1976年にツアーデビューしました。
三田村 最初の試合はアジアサーキットでのフィリピンオープン。ジャンボは「身体能力は兄弟の中で健夫がピカイチ、おれなんか敵わない」と思っていたそうだ。実は長男に遅れて、弟2人が初勝利を飾ったのは同じ年。1984年の開幕戦「静岡オープン」で直道が先に勝ち、2戦目の「白竜湖ポカリスウェットオープン」で健夫が勝った。
宮本 僕はゴルフ雑誌で初めてカラーグラビアの写真を任された試合が「静岡オープン」だった。直道は直前に、世志江夫人と結婚したんだ。今では珍しくないけれど、奥さんと一緒に優勝の記念写真を撮ったのは、あれが初めてくらいじゃないかなあ。
三田村 直道が後に海を渡り、PGAツアーで長くプレーしたことはよく知られている。けれど、その前には健夫も挑戦したんだ。
宮本 ジェットは中嶋常幸選手と同い年。実はトミーよりも早くPGAツアーに参加したんだ。
三田村 健夫の予選会の下見のために、ジャンボを交えて一緒に米国に行ったことがあった。必要な車や、宿泊先は手早くジャンボが選んでいく。「兄貴が全部決めちゃうんだよな」って苦笑いしていたのを思い出すよ。当時、健夫は米ツアーで「寝るのが怖い」という心境を味わったそうだ。試合に出るために予選会に出て、合間には一生懸命練習をする。ドライビングレンジで良い球が出始めると「この感触のまま寝たい…。朝起きたら忘れてしまう」という、すさまじくレベルの高い世界で抱える思いが浮かんだんだ。
■ジェットとジョーの由来は
―3兄弟はジャンボ、ジェット、ジョーというニックネームで呼ばれるようになりました。そもそもの由来は…?
三田村 尾崎将司が当時、日本に入ってきたジャンボジェット機(ボーイング747)にちなんで名付けられたことは以前解説したね。ジェットはショットの豪快さ、力強さがあったからそれに続いて。ジョーは「J」を頭文字にして、当時契約していたブリヂストンがファンからニックネームを募集したものだった。“3つのJ”はクラブの名前にも使われたりして、ゴルフ人気を大きくした。
宮本 直道のゴルフ人生も独特だ。2人の兄はプロ野球に誘われるほどの運動能力の持ち主。中学を卒業し、すでに兄の拠点だった千葉に四国から引っ越して、プロゴルファーを目指すようになった。
三田村 習志野の千葉日大一高に進み、仲間ひとりとゴルフ部を作って活動した。ジャンボのところで練習をしながら、腕を磨いた。2人の兄の存在が重荷になった時期もあったそうだ。「オレには野球の才能がない」「兄貴たちみたいに飛ばせない」。三男坊だから、いつも兄たちの言うことが“絶対”。犬の餌やりも彼の仕事だった。でも、そんなコンプレックスこそが、彼のプロゴルファーとしての成長を促すものになったのも事実なんだ。
末っ子として生まれた直道選手は後に、2人の兄とは違った道を歩みます。1993年にPGAツアーに挑戦し、8年にわたってシード権を確保しました。1999年には掛け持ちしていた日本ツアーで2回目の賞金王のタイトルを獲得するという離れ業も。次回は一時代を築いたジョーに迫ります。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」