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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

革命家のポパイ 倉本昌弘はいつも先進的だった/ゴルフ昔ばなし

ゴルフ界を彩ったスター選手や名シーンに迫る「ゴルフ昔ばなし」。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家の宮本卓氏の対談連載は、日本男子ツアーで通算30勝を挙げた永久シード選手のひとり、倉本昌弘選手を特集中。後編の今回は、輝かしいキャリアにおける先進的なビジョンに迫ります。学生時代からいち早く筋力トレーニングを取り入れ、第一線を退いてからは日本ゴルフツアー機構(JGTO)を設立。現在は日本プロゴルフ協会(PGA)の会長を務めるなど、ゴルフ界をリードしてきました。

■ ニックネームはポパイに豆タンク

―倉本選手は学生時代(崇徳高、日大)から海外のトレーニング法や栄養学を積極的に取り入れたといいます。164㎝と小柄ながら、身体は筋肉質なことから“ポパイ”のニックネームがつきました。

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三田村 あんなに小さいのに、なんであんなに飛距離が出るのかと当時みんなが思っていた。倉本はアメリカンフットボールを教えていた先生について筋力トレーニングに励んだりしたんだ。素晴らしい背筋をしていて、体幹の強さが彼のスイングを支えた。日本のトッププロで最初にトレーナーをつけたのは、おそらく金井清一さん(78歳/ツアー通算11勝)。その後、青木功尾崎将司らがしっかりと体を鍛えるようになったが、倉本のそれはやはり海外の手法を取り入れた点で、革新的だったね。僕はゴルフ雑誌のグラビアで「豆タンク」とタイトルをつけたことを覚えてるなあ。
宮本 AONが登場してゴルファーがアスリートらしくなり、ゲームをスポーツらしくしたともいえる。マッシー(倉本の愛称)は学生出身のゴルファーの先駆けだったこともあり、ナショナルチームにも入って、英語も理解した。だからさらに近代的なものを取り入れることができた。ゴルファーのトレーニングは今となっては当たり前だけどね。彼の肉体美は久光製薬の「エアーサロンパス」のCMで採用されたほどで、パンツ一枚で出演した。プロゴルファーの裸は当時、本当に珍しいものだった。それに、プロゴルファーのきちんとしたマネジメント会社の走りとなるサポート体制も築いたように思う。

■全英オープンで日本勢最高の4位

1981年にプロ転向した倉本選手はその直後に破竹の勢いで勝利を重ねました。2年目の1982年、ロイヤルトゥルーンで行われた「全英オープン」では、日本勢最高位となる4位に入りました。

宮本 マッシーはアマチュアで史上初めてツアー競技で勝った(1980年・中四国オープン)選手だが、あの全英こそが彼の“看板”になった出来事だと思う。優勝したトム・ワトソンに2打差で終えた。契約ウエアのBlack & Whiteの売り上げが何倍にもなったというんだから。すごいインパクトだった。
三田村 倉本は若い頃から“ゴルフ脳”が優れていた。2010年の「日本シニアオープン」でもテレビ解説で「ラフに入れました。ミスショットですね」と言うところを、実はわざとラフに入れていたり。本人にしてみれば「ピン位置を考えれば、きょうのコンディションならラフの方が狙いやすい」というところだったんだ。ゲームの組み立ての発想がいくつもある。
宮本 青木さんもそうだったけれど、マッシーもセカンド地点なんかで芝を空に投げて風をチェックすることは少なかった。上空や周りの木々をパッと見て、クラブをパッと選んだ。風は舞うし、突然止まることもある。そういう周囲の状況に対してセンシティブになりすぎない強さがあった。
三田村 風の重さや軽さなんかは、実際にボールが飛ばないと分からないことが多いからね。プレーペースの速かった倉本は4時間以上あるラウンドで「ストロークの数だけ、72回だけ集中すればいい」と考えることができた。歩いているときに悩まない。「打っちゃったんだから、仕方がない。ボールのところに行ってから考えればいい」というようにね。スイングにも、ショットにも完ぺきはないから、限りある集中力をグリーン上で使うというタイプだったんじゃないだろうか。
宮本 それでいて理論派でもあった。かつてNHKで「ベストゴルフ」というレッスン番組が放送されていて、1年間の連載番組をひとりのプロが担当した。マッシーの時が本当に分かりやすく、素晴らしく、多くのアマチュアゴルファーが見入った。彼はゴルフ雑誌でのレッスンはほとんどやらなかったこともあって、あの番組は当時としては革新的だった。

■AONKと評された時代とPGAツアー挑戦の真意

―1980年代はまさにAONの全盛時代。倉本選手はそこに割り込む存在となり、AONKと評されることもありました。一方では大先輩の3人とは異なる形で、ゴルフ界に大きく貢献したプレーヤーでもあります。

三田村 AONという表現について振り返ると、中嶋常幸(N)自身は「AOと並べられるのはおこがましい。日本のゴルフ界は青木、尾崎がいてこそ」という思いを抱えてきたと思う。学生ゴルフ出身の倉本もまた、彼らとの立ち位置の違いを理解していたはずだ。
宮本 マッシーは早くからビジネスも先を見据えた男だった。1992年に日本ツアーで25勝目を飾り、永久シードを獲得すると、翌年はPGAツアーに挑戦した。もちろんプレーヤーとしての腕試しもあったが、「将来、日本の会長になるためにPGAツアーのシステムを知りたかった」とはっきり言っていた。試合をこなす傍ら、ツアーが所有するバンや試合運営のシステムを勉強した。転戦中に荷物を運ぶための車を買って、キャディやスタッフに次の会場に運ばせたりもしていた。そうすれば大切なクラブの到着が遅れたり、なくなったりもしないでしょう。現在はPGAツアーにもそういうサービスが一部あるけれど、彼はいち早くそういうことにもトライした。発想力が本当に豊かだよね。

―1999年にはプロゴルファーのライセンスを発行する日本プロゴルフ協会(PGA)から、プロツアーの競技部門を切り離し、現在の日本ゴルフツアー機構(JGTO)を発足させました。かつてPGA・オブ・アメリカからPGAツアーが独立したように、米国と同じ道を歩ませたのです。

三田村 90年代だっただろうか。「全米オープン」の取材に出向いたとき、試合中に倉本が突然駆け寄ってきたことがあった。「(日本の)PGAを何とかしないといけない」って言うんだ。日本に帰ってから本格的に動き出し、形を模索してブレストを行った。JGTOという形もスタートは良かったと思うが、“資金繰り”におけるシステム構築を詰め切れなかった。トーナメントの運営や設備を扱う会社を一本化できず、今もスリムでないコストを必要とする体制が続いている。テレビの放映権も掌握できなかった。その問題が現在のツアー低迷にも響いている。

三田村 倉本はトップに立って改革を進めた。けれど、個人事業主であるプロゴルファーたちを束ねるのは本当に難しいこと。「数年後はきっと、こうできる。次世代につなげよう」と説いても、選手個々は「数年後ではなく、オレは調子が良いとき、いま稼ぎたい」と思うものだからね。倉本は先を見据えていろんなことに取り組んだが、彼の発想と他選手とをつなぐ人材がいないと、食い違いが多々生まれる。優秀なリーダーの思いを具現化する手腕の持ち主は、いつの時代も必要とされるんだ。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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