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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

現役71歳・尾崎将司はなぜ“ジャンボ”なのか?/ゴルフ昔ばなし

2018/01/24 08:17


起源が数百年前ともいわれるゴルフは西暦1900年を過ぎてから、世界で巨大な市場を持つスポーツのひとつとして成功を収めました。近年は20代のプレーヤーたちがプロツアーを引っ張り、話題の中心を担っています。ただ、彼ら、彼女らが輝ける舞台があるのも、先人たちの功績があったからこそ。20世紀半ばから、海外ではアーノルド・パーマージャック・ニクラスゲーリー・プレーヤーのビッグ3が、日本ではAONや樋口久子らがブームの火付け役になりました。若い力にスポットライトが当たるいまだからこそ、後世に残したいストーリーがある。GDOでは長年、日本のゴルフメディアで活躍してきたゴルフライターの三田村昌鳳氏と、GDOの「旅する写心」でもおなじみのゴルフ写真家・宮本卓氏をナビゲーターに迎え、対談連載でゴルフの歴史を学びます。

最初のテーマは、きょう1月24日に71歳の誕生日を迎えたジャンボこと尾崎将司。第1回は「ジャンボ」のニックネーム誕生、そして当時の衝撃ぶりに迫ります。

■プロ野球引退 「独身」とウソをついて研修生に

―数々の選手に密着取材をしてきた三田村さんは、かつて尾崎選手の海外遠征などに同行したほか、NHKで放送された特集「尾崎将司 300ヤードの冒険者」では番組の構成役を務めました。

三田村 ジャンボにとっても晩年に当たる1997年にNHKで取材をしてから20年が経ちました。そうは言っても、やっぱりジャンボはいまでも誰もが認めている存在です。彼の登場で日本のゴルフ界が大きく変わったことは間違いない。それまでの日本のプロゴルファーというのは、どちらかというと“職人的”な要素がものすごく強く、一般的なアスリートではなかった。その代表格が中村寅吉さんや戸田藤一郎さん(1930年代以降に活躍)。後には70年前後に杉本英世、安田春雄、河野高明の“和製ビッグ3”へと続いた。「パワーゴルフ」という言葉が出始めた頃で、そこにジャンボが現れた。

―甲子園優勝投手(1964年春)として尾崎は65年にプロ野球・西鉄ライオンズに入団。しかしわずか3年で引退し、プロゴルファーを目指して習志野カントリークラブの研修生に。プロテストを70年に一発合格しました。

宮本 僕はまだゴルフの「ゴ」の字も知らない時代です。MBS(毎日放送)で「シェルワンダフルゴルフ」という番組があって、それを父が良く見ていたんですが…。ジャンボさんがプロになったときには、もう話題性はあったんですか?
三田村 いや、ない。「習志野に結構飛ぶやつがいるらしいぞ」というくらいだった。ジャンボは上京した当時、結婚もして、奥さん(義子夫人)を九州に残してきたんだ。「3年、待ってろ」って言ってね。本当は独身でないと研修生にはなれなかったんだけど、(家族欄がある)履歴書の半分を切って、独身と偽って出した。そんな彼でも、プロテストのときは「1番のティショットで“がんじがらめ”になっている自分が分かった」という。初日の前半は「38」をたたいたんだよ。そのとき「俺はものすごく人生ついてるな」って思ったそうだ。キャディさんがものすごく美人だったらしいよ。
宮本 じゃあ、タイガーが出だしで「40」をたたいた「マスターズ」初優勝(1997年)と似ている。そこから歴史が始まったんだ。あの頃、もうあんな派手な服装をしてたんですか?
三田村 全然。当時は上が白いマンシングウェアのシャツに普通のズボン。プロテストでは、がんじがらめになりながらも、「絶対に負けない。俺にはプロ野球をやってきて鍛えた肉体が、身体能力がある」と決意を持ってプレーしたそうだよ。

■「ジャンボ」の名付け親はスポーツ紙

―いまでは誰もが知るジャンボ尾崎の呼称。そもそも、ニックネームをつけたのは?

宮本 そうか。今の若い人たちはそういうのも知らない世代になったんだね。
三田村 スポーツニッポンの記者に樋口恭さんという方がいて。70年に習志野で行われた月例会で尾崎を取材したんだ。「ジャンボ・プロ誕生」というのが書き出しなの。当時はアメリカからちょうどジャンボジェット機(ボーイング747/70年から多くの航空会社が導入)が入ってきた頃だったから。
宮本 あの頃、ジャンボジェット機は世間の想像を絶するほど大きな機体だったんだよ。
三田村青木功が「コンコルド」と呼ばれるのはその後だからね。青木さんの方が先にプロになったんだけれど、我孫子(ゴルフ倶楽部)にいた当時(青木は1964年にプロテスト通過)は「東京タワー」と言われていた。背高のっぽで痩せていて、アドレスしたときのスタンスも広かったから。青木さんにとっても、ジャンボの存在は大きかったはず。プロになってすぐは「コイツを負かしたい!」という存在がいなかったかもしれないが、とにかくボールが飛ぶ、自分にないものを持っているジャンボが出てきた。青木さんの能力からすれば、それまではプロの世界も「ちょっと頑張ればいつでも勝てる」くらいに思っていたかもしれない。仲が良い、悪いという次元ではなくて、目標とする相手が明確になって本気になった。人間って、そんなわずかな“きっかけ”が、なかなかないものだけどね。

(編集部注/1984年10月の文藝春秋「Sports Graphic Number」で樋口氏は、記事にしてから「最初の一年は他紙に黙殺されたままでしたよ」と回顧している)

■「俺の時代が終わる」と確信したレジェンドたち

宮本 昔は運動神経が一番ある人が野球をやった。だからこそ、間違いなくゴルフ界ではジャンボさんが突出していた。せいぜい、体格が良かったのは杉本さんくらいだったかもしれない。その中で青木さんは体格が良くて、もともと野球をしていた。だからこそ、活躍したのは当然と言えば当然かもしれないけれど、ゴルフの特徴は競技人生が長いということ。ケガをするかしないかでキャリアが大きく変わってしまう。ジャンボさんと青木さんは本当に体が強く、大きなケガがなかったのもすばらしいことだった。
三田村 尾崎は学生時代に野球を始めてから、「絶対にケンカをしない」と決めていたそうだ。ケガをしてしまったら終わりだから。
宮本 体も大きくて目立ったでしょうから、ケンカくらいついしてしまいそうだけど。意識の高さですね。

―尾崎は71年の「日本プロゴルフ選手権」で初優勝。73年の「マスターズ」では8位に入った。まさに時代の寵児としてAON時代の旗振り役になった。

三田村 70年代の初めに、軽井沢で「関東プロゴルフ選手権」があって、協会は当時、試合前の練習場でドライビングコンテストをやったんだ。杉本が多少フォロー目のところで、312ydとかを飛ばしたんだけど、尾崎はその様子を黙って見ていたの。「ジャンボ、お前やれよ」って言われても、なかなかやらない。やっと、やる気になったら、風がアゲンストに変わった。でもそれで、324ydを記録して…。杉本にとっては「なんてヤツだ…コイツに勝たせたら俺の時代が終わる。コイツには勝たせるわけにいかない」と思わされた初めての選手だったわけ。ジャンボが勝った「日本プロ」で優勝争いをしたのがその杉本さん。「なぜ時代が変わると思ったのか?」と聞くと、「尾崎は4等分できる」と答えたんだ。あの頃の日本のプロゴルファーはグリーンを狙うときに「手前か奥か」と2等分して考えることしかできなかったが、杉本さん曰く、尾崎はアイアンショットで「右奥、左奥、右手前、左手前」と4等分して打つことができた。“ジャンボの衝撃”はなにもドライバーショットだけじゃなかったんだ。

次週公開の第2回は80年代に尾崎が瀕したスランプについて語ります。30代半ばで味わった“どん底”の時代。ある日、報道で自らを苦しめたジャンボが向かった先はアメリカでした。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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