【藤田寛之専属キャディ・梅原敦の日本OPレポート<2>】
2011年 日本オープンゴルフ選手権競技
期間:10/13〜10/16 場所:鷹之台カンツリー倶楽部(千葉)
三田村昌鳳が語る日本オープン(2)
さらに翌年もセベが優勝し、日本オープンのトロフィは、2年連続でスペインへと渡った。
青木が発したコメントは、この年(1978年)のものである。
青木は、この年のマスターズで1打足りずに予選落ちし、それから日本だけでなく世界へ目を向けるようになった。そして初秋に開催された世界マッチプレー選手権で、見事に優勝を遂げたのである。
「海外遠征して勝てたのは、協会、主催者の理解があったからこそだ」と青木は言った。当時は、日本の試合に欠場し海外の試合に出場するというのは、大変なことだった。年間公認・後援などあわせて40試合以上の大会が開催されていた日本ツアー。主力選手が欠場することは、基本的に許されないことだった。ましてや病欠ではなく、海外遠征となれば「とんでもない」という風潮があったのも事実である。
それを敢えて「世界で戦いたい」という情熱をもって実践したのが青木功だった。世界マッチプレーで優勝し、文字通り「世界のアオキ」という冠がついた。その直後の日本オープンだっただけに、青木に対する期待感は、一気に膨らんだ。けれども、この敗退で、またもや『日本オープンには勝てない青木』という印象を強めたのである。
「終わった。終わったよ。やるだけやったんだ……」
青木の言葉が、寂しそうに響き渡った。
セベ・バレステロスは、凄いやつだな、と改めて感じたのが、この78年大会だった。ヨーロッパ・ツアーの連戦で、セベの肉体は疲労困憊していた。練習ラウンドを見た時点では「これは、アカンな」と思うほどだった。膝の痛みで通常のスイングができなかった。それをカイロプラクティックの治療で応急処置をとり初日が始まった。
初日、ベストスコアの68。そのまま3日目まで首位を走った。青木とは、5打差あった。
「俺が3アンダーで回れば、面白くなるよ」と青木は、闘志を燃やしていた。
確かに、チャンスはあった。首位のセベとは5打差だった。けれども、青木の動物的カンは、セベが崩れると読んでいた。案の定セベは、75と崩れた。しかし青木の攻撃的プレーも、4、5番で痛恨のミスをして流れをつかめなかった。
セベの連覇は、日本オープン史上42年ぶりの記録だった。
青木功が、この日本オープンのタイトルを獲得したのは、それから5年後。初めて優勝争いをしてから13年。日本オープン初出場から16年の歳月を費やしていた。
青木がドローボールからフェードに変えたのは、1973年大会でベン・アルダに敗れたのがきっかけだった。土壇場でフックがかかりすぎて致命傷になる。世界で戦うにはフェードを覚えないといけないという理由だった。
その青木の球筋の幅を見事に生かして優勝したのが、1983年、六甲国際での大会だった。テリー・ゲールとのプレーオフ。2ホール目。青木の第1打はフェアウエイ中央。いまでも脳裏に焼き付いている最終ホール、第2打の芸術的なフェードボール。ピンの位置は、グリーンの左サイド。そこを4番ウッドで狙った。グリーン左サイドにはバンカーがあった。青木のボールは、そのバンカーに向かって飛び出した。そして落ち際から見事にフェードがかかって、グリーンを捉えた。それが勝利の1打だった。
2位が4回。優勝戦線の回数を入れれば、その倍は優勝チャンスを逃していた。生涯44勝目。
「凄いね。あの執念。もう41歳なのに……。僕もあの年になっても、あれだけの情熱をゴルフに持てるようになりたい」と語ったのは、当時、29歳の中嶋常幸だった。中嶋が日本オープンに初優勝したのは、その2年後、31歳のときだった。
- 三田村昌鳳(みたむら・しょうほう)
- 1949年、神奈川県逗子市生まれ。『週刊アサヒゴルフ』副編集長を経てフリーのジャーナリストに。95年、米国でスポーツライター・ホールオブフェイムを受賞後、翌年には第1回ジョニウォーカー・ゴルフジャーナリスト・アウォード最優秀記事賞に選ばれる。翻訳・監修に『タイガー・ウッズ-伝説の序章』、著書に『伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち』など。また、日蓮宗の僧侶として自坊(神奈川県・逗子市の法勝寺)の副住職も兼ねる。