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2012年 マスターズ
期間:04/05〜04/08 オーガスタナショナルGC(ジョージア州)

【WORLD】26人が語る“オーガスタの思い出”

Golf Digest(2012年4月号) texted by GUY YOCOM

多くの人が、ハイライトの中から、もっとも思い出に残るマスターズの瞬間を選んで覚えている。歴史的なバックナインでのチャージや、自滅、劇的なショットの数々。18番グリーンでの喝采…。そんな中から、お気に入りが浮かび上がってくるのだ。

一方、選手たちにとっては、経験というパレットは、より心地よく、またさまざまであり、しばしば競技以外の場所で起こるものである。パー3コンテストも、チャンピオンズディナーも、名誉スターターのセレモニーもユニークな練習ラウンドも、これらはマスターズだけのものであり、そのことが、特別な思い出を生み出す機会となってもいるのだ。

マーク・オメーラ

1979年全米アマ優勝により、1980年のマスターズでプレーした。初日、僕はディフェンディングチャンピオンであるファジー・ゼラーと同組。ものすごくナーバスになっていて、全然いいプレーができなかった。11番パー4で、私は4番ウッドのセカンドショットを左に打ち込んでしまった。私のボールは、池の近くのリーダーズボードにあたり、アンディ・ノースと書かれたボードを落としてしまった。そしてドロップした後、次のショットを池に入れた。18フィートのパットを入れて、ようやくトリプルボギーでそのホールを終えたんだ。一方のファジーはバーディだった。だから、一緒に12番ティーへ歩いていくとき、僕はとても沈んだ気持ちだった。でも、ファジーはファジーだった。こう言ったんだ。「お前は7を打っただけ、オレは3だった。足してみろよ。10になるだろう。これを2で割れば5だ。スコアカードなんか気にせずに、あのホールはパー5だと思え。だから、2人ともパーだったんだよ。気にするな」と。

ビリー・メイフェア

私がマスターズに初めて出場したのは1988年だが、そのころは第1ラウンドが終わったあとに、組み合わせを変えていた。その年、前年の全米アマチャンピオンとしてプレーした私は、第1ラウンドでマスターズのディフェンディングチャンピオン、ラリー・マイズとプレーした。その夜、私は金曜日のスタート時間を聞くために電話をした。女性が、「スタート時間は午前8時35分で、ミスターパーマーと一緒です」と言った。覚えているのは、パーマーと一緒にプレーすることになった自分のティータイムがどれほど重要だったかということだ。アーノルドは、全然いいプレーをしたわけではなかったが、とても寛大だった。18番でのことだ。彼はフェアウェイ左サイド、私は右サイドにいた。私がボールを見落とすと、アーノルドが手招いた。「ここだよ」。彼は、バンカーのすぐ手前の場所を指差した。「(一打目として)いい場所だよ」。続けて1961年にゲイリー・プレーヤーに1打差をつけて首位に立っていたとき、ここからひどい目にあったことを話してくれた。それは、ひどいセカンドショットをグリーンサイドバンカーに入れて、ダブルボギーを叩き1打差で敗れたことだった。「18番ティーに立つたび、いつも私はあのミスについて考えるんだ。あの時、自分がしたことを2度としないようにね」とアーノルド。ラウンド後にはキャップにサインをして私にくれた。私は毎年マスターズでプレーするたび、そのキャップにピンバッジを1つずつ、つけている。アーノルドが私にサインしてくれたキャップには今、12個のピンバッジが付いている。

■ チチ・ロドリゲス

私は、1959年にクリフォード・ロバーツ(オーガスタをボビー・ジョーンズとともに剏設した人物)がプエルトリコを訪れたときに会った。彼は私を指差し、エド・ダドリー(1920~1950年代に活躍した選手)に、「あの小さな男はプレーできるのか?」とたずねた。エドは、「ああ、できるとも」と答えたんだ。すると、ミスター・ロバーツは私にこう言った。「マスターズでプレーするというのはどうだい?」と。私は、「でも、ミスター・ロバーツ。僕は未勝利ですよ」と答えた。すると彼は、「私は君をプエルトリコのチャンピオンだと発表する方法をとるよ。プレーするんだよ」と言った。こうして私はマスターズに初めて招待された。

■ リー・エルダー

私は1974年のマスターズ翌週に行われたモンサント・オープンで優勝して、翌年マスターズに招待された。1975年のマスターズまでは本当に長い1年だった。
それまで黒人はプレーする資格を与えられていなかったのだ。大会前、私にはたくさんの問題が予想された。クラブ周辺の問題、ギャラリーの問題、オーガスタの人々との問題。しかし、実際はそんなことはなかった。私とその仲間たちは、歓迎された。今ではそんなことは問題にもならないと私は思っている。マグノリアレーンをドライブしていくのは、ものすごくスリルのあることだった。事実、木曜日に1番ティーに行くよりも私は震えていた。ゲートで私が最初に会ったのが、クリフォード・ロバーツで、かれは温かい歓迎を示してくれた。それは、本当に予想外のことだった。

ジェイ・ドン・ブレイク

僕は4年間、マルシという名前の女の子をデートに誘っていたけどうまくいっていなかった。彼女はラスベガスに住んでいて、僕は街に来るといつも、彼女を探していた。マルシは、ゴルフについてはほとんど知っていることがなく、私がツアープレーヤーになったということなどお構いなしだった。僕の友だちでもあった彼女のお父さんが、僕に「気長に」と言いつづけていたよ。だが、ついに1993年、僕は最大級の礼を尽くして、「マスターズに彼女として一緒に行かないか?」と言った。すると彼女は、「マスターズって何?」。僕は「ゴルフのケンタッキーダービーみたいなものなんだ」と彼女に伝えたんだ。これが効いた。僕たちはすばらしい1週間を過ごした。人気の場所にはすべて行った。フーターズでディナーをしたり、朝はクリスピークリームに行ったりしたよ。僕は予選を通過し、彼女にとってすべての経験は過去のこととなった。マスターズが終わって、僕は次の試合のためにヒルトンヘッドに向かわなくてはならなかったが、マルシはラスベガスに帰るより僕と一緒に行きたくて泣いたんだ。そして僕たちは結婚した。それ以来、僕たちはずっと一緒にいる。マスターズは僕たちの最高の初デートなんだ。

フレッド・カプルス

プロになって最初の2年間、PGAツアーでは3サムでプレーしていた。それにはすぐに慣れたね。僕は誰と一緒のペアを組むとかはまったく気にせず、常にリラックスして自分のゲームをしていた。ところが1983年のマスターズでは、ジャック・ニクラスとの2サムだった。そして、彼はほとんど僕を死に至らしめた。僕は彼と張り合うことができなかった。ジャックはそれまで見たこともないほど歩くのが早かったんだ。

僕が自分のボールのところにたどり着くと、ジャックはすでに彼のボールのところにいて、両手を組んで、僕が打つのを待っていた。彼は気難しいわけでもなく、彼自身のことだけを気にかけていた。僕は彼のするようにするしかなく、ジャックはオーガスタにとって彼がどういう人物であるかをわかっているかのように振舞っていて、僕はショットとショットの間にこの奇妙なプレッシャーを味わっていた。自分のリズムを見つけることなどできなかった。僕は慌てるといいプレーができない。まあまあのプレーはできるが、それ以上のことはできないんだ。この事実は僕を本当に驚かせたものだ。

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