岩田寛が米国撤退の可能性を示唆 国内出場義務「5試合は厳しい」
2016年 トラベラーズ選手権
期間:08/04〜08/07 場所:TPCリバーハイランズ(コネチカット州)
<選手名鑑208>ビジェイ・シン(後編)
■ 30歳からの米国挑戦
シンは88年、ナイジェリアオープン優勝で手応えと多少の資金を得て、欧州ツアーのQTに再挑戦した。彼の将来に投資する支援者も現れ、不足していた資金9千ドルも集まり、見事合格した。フル参戦した89年には、ボルボオープンで念願の初優勝。活躍は続き、90年にエルボスキーオープン、92年には2勝を挙げ、通算4勝。目標の米PGAツアーへの道を切り開いた。
米初参戦となった92年から大活躍を見せると、ジャック・ニクラスの目にとまり、ニクラス主催のメモリアルトーナメントに推薦出場の機会を得た。シンはデビュー戦で、いきなり7位の好成績を残し、翌年3月にはアーノルド・パーマーの招待を受け、パーマー招待に出場し2位タイに入って躍進した。6月の全米オープン前週に開催されたビュイッククラシックでツアー初優勝、そしてシード権を獲得。同年は新人王にも輝き、華々しい挑戦が始まった。
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彼が選んだ米国拠点はPGAツアー本部のあるフロリダ州ジャクソンビル。その理由は「ツアーが設営した世界一の練習施設があるから」だった。試合会場でも日没まで練習に没頭し、「シンはいつ寝ている?いつ休んでいる?」と思うほどのハードワーカー。とてつもない努力を重ねていた。
■ 絶対王者ウッズを抜き、41歳の世界ナンバーワンへ
4年後の97年には、メモリアルトーナメントでツアー4勝目、98年には全米プロ選手権に優勝し、初のメジャータイトルを獲得した。タイガー・ウッズの全盛期だった2000年には、37歳でマスターズ優勝。02年のヒューストンオープンでツアー10勝目を挙げた。翌03年には、40歳で初の賞金王を戴冠。04年9月には、ドイツバンク選手権で優勝し、264週継続して王座にいたウッズを抜き、41歳で自身初の世界ランク1位に上りつめた。同年はツアー史上初の年間賞金1千万ドル(およそ10億4千万円)を突破し、最優秀選手賞に選出されたほか、05年には世界殿堂入りも果たした。
07年のメルセデス選手権優勝で、通算成績を30勝とすると、40歳以降での18勝目は、サム・スニードの『17』を抜いて40歳以上の最多勝利数となった。08年のドイツバンク選手での勝利でツアー34勝目とした。オフがないほど試合に出場し続け、2012年の開幕戦でPGAツアー出場500試合目を数えた。現在は世界1000試合以上に参加し、15か国で優勝している。
「年齢は単なる数字」が彼の信条だ。41歳で全米プロ選手権2勝目、45歳で世界選手権優勝など「メジャー、賞金王、年間王者、世界ランク1位、世界殿堂」という最高のステータスを次々と掌中に収め、「加齢は老化ではなく、経験を付加した進化」と、現在もポジティブに捉えている。
■ コース内外で火花を散らす
大成功を収めた一方、不器用な性格も災いし、ライバルを次々に“敵”としてしまったエピソードを紹介しよう。
・「VS タイガー・ウッズ」
2000年のプレジデンツカップでシンのキャディが帽子の後部に「Tiger Who?(タイガー?誰それ?)と刺繍で文字を入れ登場した。シンが黙認放置したことが、米国チームや米国ファンの感情を逆なでし非難の嵐となった。さらに最終日、シングルマッチでウッズと対戦した際も、ウッズの50cmのパーパットにOKを出さず、メディアは一斉に「シンはウッズを馬鹿にした」と報道し、不穏な空気が漂った。
・「VS ウッディ・オースティン」
2002年ペブルビーチでは「コースの駐車場に空きがなかった」という理由で二重駐車した。帰ろうとしたウッディ・オースティンの車両が出られなくなり、シンに激怒。シンは謝るどころか「もっと丁寧に怒ってよ」と返し、気持ちのしこりを残したままだという。2人の関係は今どうなっているのか…?
・「VS フィル・ミケルソン」
05年のマスターズで、フィル・ミケルソンと同組でプレーした際、ミケルソンの靴底スパイクの鋲が、「長すぎるのでは?」と非難した。調査の結果、問題はなく事態は収束したが、翌06年のフェニックスオープンで2日間ふたたび同組となり、火に油を注ぐ出来事が起きた。シンは「僕より飛ぶミケルソンのドライバーは違反ではないか?」と非難。競技委員によるテストで問題なしと証明されたが、両者の冷ややかな関係は決定的となった。
・「VS ロリー・サバティーニ」
2012年のソニーオープンではロリー・サバティーニと大喧嘩した。シンは3日目同組だったサバティーニのキャディに対し、1番グリーンで「パットしようとした瞬間にお前が動いたから外した」などと抗議。サバティーニは「僕のキャディはマナー違反をしていない」と反論し、激しい口論に発展。言葉のクラッシュは人間関係のクラッシュにまで及んだ。
・「VS PGAツアー」
2013年初め、シンは「筋肉増強作用があると言われる鹿の角(つの)を成分としたスプレーを使用した」としてPGAツアーから90日間の出場停止処分を受けた。その後、ツアーが世界反ドーピング機関に確認したところ「陽性反応を示さない限り、スプレー使用は禁止されていない」という回答で処分を撤回。その直後、シンは名誉棄損でPGAツアーを訴え、今も係争中だ。
シンの心中はわからないが、悔しさを晴らすため血のにじむような努力をするのか?敵を作ることで燃えるのか?時に冷ややかなツアーの雰囲気の中でも淡々とプレーし、53歳の今も驚異の活躍を続けている。その一方、ジェイソン・ダフナーはプロゴルファーとしてのシンに心からの敬意を抱くなど、“親シン派”がいるのも事実。確かなのはシンには鋼の精神力と信念をもっていることだ。
■ 弱者の痛みを知る強者
シンは決して話し上手ではなく、サービス精神も旺盛な方ではないが、社会貢献やチャリティ活動には積極的な面を見せる。93年の全米プロ会場インバネスで、身体障害者のファンにサインと記念写真を求められ笑顔で快諾。サイン入りボールを手渡した後、大切であるはずの練習時間を削り、1時間もゴルフ談義していた。
04年10月にはフロリダ州を襲ったハリケーン・チャーリーの救済基金のため、米国赤十字に10万ドル(約1000万円)を寄付。ジャクソンビルの彼の自宅もその影響で停電、浸水の被害を受け、次の試合を欠場したほどだったが、まず彼が行ったのは寄付だった。同年12月のスマトラ島沖地震の時も、翌年、米国ルイジアナ州を襲ったハリケーン・カトリーナの時も、いち早く寄付をしていた。苦労に苦労を重ね、そして誰かに助けられた経験が彼を突き動かしているのかもしれない。
シンの思いと活動は次第に知られるようになり、04年10月12日、フィジーで国民栄誉賞を受賞した。08年3月4日には、アジアンツアーの名誉メンバーに選出。85年アジアンツアーのインドネシアオープンでは、意図的に過少申告した嫌疑をかけられ、追放されたツアーでの名誉が回復された(前編で既述)。14年にはフィジーの親善大使にも就任。シンは頑固一徹の寡黙なゴルフ職人という男だが、現在もPGAツアーで激闘しながら社会貢献活動など黙々と行っている。
- 佐渡充高(さどみつたか)
- ゴルフジャーナリスト。1957年生まれ。上智大学卒。大学時代はゴルフ部に所属しキャプテンを務める。3、4年生の時に太平洋クラブマスターズで当時4年連続賞金王に輝いたトム・ワトソンのキャディーを務める。東京中日スポーツ新聞社を経て85年に渡米、ニューヨークを拠点に世界のゴルフを取材。米国ゴルフ記者協会会員、ゴルフマガジン「世界トップ100コース」選考委員会国際評議委員。元世界ゴルフ殿堂選考委員。91年からNHK米ゴルフツアー放送ゴルフ解説者。現在は日本を拠点に世界のゴルフを取材、講演などに飛び回る。