青木功、樋口久子らが日本プロゴルフ殿堂入り ジャンボは辞退
文化功労者・樋口久子氏と、ラウンドをともにして
日本女子プロゴルフ協会(LPGA)の樋口久子相談役が、今年度の文化功労者に選出され、4日(火)に都内で顕彰式が行われた。文化の向上発達に関して特に顕著な功績を残した人物に与えられる顕彰で、ゴルフ界では男女を通じて史上初。樋口氏はこの日、青色発光ダイオード開発でノーベル物理学賞に選ばれた名古屋大教授の天野浩氏や米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の中村修二氏らとともに顕彰式に臨んだ。
「大変嬉しく思っています。私たちの分野で頂けるとは夢にも思っていなかったので、光栄に思っています」。自身の名前が冠に付された「樋口久子 森永レディス」の会場で、樋口氏は改めて受章の喜びを口にした。
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多くの先達もいる中で、なぜ、樋口氏がゴルフ界で初の栄誉を手にすることとなったのか――。女子ゴルフの草分けとして、国内外にわたる突出した実績を残す名選手(国内69勝・海外3勝))だったことはもちろん関係あるだろう。ただ、より大きく評価されたのは、現役を退いて以降も協会で要職に就き、女子ツアーの活性化に多大な貢献を果たしたからにちがいない。
プロ生活30年の後、現役を引退した1997年にLPGAの会長に就任。バブル景気が終焉し、国内男子ツアーの人気にも押されていた不遇の時代に、ジュニアゴルファーの育成をスローガンに掲げ、女子ゴルフ全体のレベル底上げを狙った体制作りに励み、着々と改革を進めた。ツアー参戦への門戸を広げる目的でQT(予選会)制度を導入。また、アマチュア選手の主催者推薦での出場上限数(年間4試合)を2001年から撤廃し、アマチュアたちがトップのツアーでより多くの経験を積める仕組みを整えた。
それらの施策は、新星たちの台頭という形で実を結ぶ。その象徴ともいえるのが、宮里藍の出現だろう。当時高校3年生だった、03年「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメント」で30年ぶりとなるアマチュア制覇。さらに、05年に初開催された国別対抗戦「女子ワールドカップゴルフ」では宮里と北田瑠衣が組んだ日本チームが初代優勝国となり、笑顔でカップを掲げ合う姿が世界に発信された。南アフリカの地に赴き、ともに喜びを分かち合った樋口氏の表情はそんな感慨に満ちていた。人気の向上とともに、不景気にもかかわらず試合数が増えていったのは、周知の通りだ。
10年2月からは会長職を退き、表舞台に立つ機会は減ったが、69歳を迎えた今も、年間半数以上のツアー競技でプロアマラウンドに出場。現場の最前線でスポンサーとの関係構築を続けている。そう、試合数が増えていったのは、樋口氏自らの「トップセールスに負うところも大きい」(関係者)のだった。
先日、そんな樋口氏と初めてラウンドをする機会に恵まれた。それはもう前日から緊張しっぱなしでコースへと向かったのだが、プレーを終えた印象を一言で現せば、「実に楽しかった」のである。
恐る恐るスイングへの悩みを打ち明けてみると、足を止めてワンポイントレッスンを始めてくださった。その後は、ティグラウンドごとに私の正面に立ち、ジッとスイングを見つめ、その都度、丁寧なアドバイスをくれるのだ。一時代を築いたプロから指導を受けられるのだから、楽しいに決まっている。きっと、プロアマラウンドで同伴したスポンサーたちも、みな同じ気持ちで帰路につくのだろう。樋口氏の気さくな人柄や気配りに、深く感じ入った。
自身のプレーへの熱意も、いまだ衰えることを知らない。「樋口久子 森永レディス」プロアマラウンド終了後、樋口氏は選手たちで埋まっているドライビングレンジへと足を運んだ。「だめねえ。いっぱいだ・・・」。目的は、自身の練習だった。今でも、季節に合わせてクラブを2セット用意しているという。ゴルフというスポーツそのものが大好きなのだ。
だからこそ、今もバイタリティ豊かに、ゴルフ界の発展に向けて多忙な日々を送り続けている。「五輪もある。引き続きジュニアの育成に力を入れていきたい」。樋口氏が頭に描く未来図は、これからもゴルフ界の幸せな終着点へと導いてくれるはずだ。(編集部:塚田達也)
塚田達也(つかだたつや) プロフィール
1977年生まれ。工事現場の監督から紆余曲折を経て現在に至る。35歳を過ぎてダイエットが欠かせなくなった変化を自覚しつつ、出張が重なると誘惑に負ける日々を繰り返している小さいおっさんです。