B.ランガーが4打差をつけて王手! 室田は29位タイ
ブルース・フライシャーはJ.ニクラスとA.パーマーに仲間入りを果たした
ウェンディ・フライシャーは、夫との頭脳プレイがいつ頃始まったのか、もう覚えていない。マイアミ大学で心理学を専攻していたウェンディは、PGAツアーに始まって現在のシニアPGAツアーに至るまで、夫のブルースに、ゴルファーとしての自分を信じるよう訴えつづけてきた。
「夫にこう言うんです。『あなたは素晴らしいゴルファーなのよ、わかってる?』って」
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セーラム・カントリー・クラブで行われた2001年全米シニア・オープンで、7月1日、遂に夫が勝利を決めた直後、ウェンディはそう語った。
「彼が自分に自信を持つためには手助けが必要でした」とウェンディは言う。「これまでの人生色々なことがあったわね、って彼に語りかけたわ」
数十年前、ウェンディは出産で命を落としかけた経験がある。入院中昏睡状態に陥り、回復するまでには時間がかかった。その他多くのカップル同様、彼らも様々な荒波を乗り越えてきたのだ。
ウェンディ・フライシャーは時として、自分がフロイトになったような気がしてくるそうだ。
「私は、ゴルファー全員の中に潜む悪魔と闘っています。それは自分のセルフ・イメージという悪魔」とブルース・フライシャーは語る。「外部からの様々な要素に影響されやすいんです。その結果、自己評価と、周囲の人々の評価がせめぎ合う・・・。」
シニアPGAツアーで2人にチャンスが与えられたのは、これで2度目だ。ゴルファーとして、フライシャーは14回の優勝経験がある。1999年以降600万ドル以上を稼ぎ、一生経済的に安心できるだけの額を手に入れた。
フライシャーは、今回初めてシニアのメジャータイトルを獲得した。フィラデルフィア州ベツレヘムのソーコン・ヴァレーで行われた去年の全米シニア・オープンでは、3日目までリードしていながら2位に終わった。フライシャーは、全米アマチュアと全米シニア・オープンの両方を制し、ジャック・ニクラスとアーノルド・パーマーに仲間入りを果たした。
「自分自身にセカンドチャンスを与えてみよう、と思っていた頃にシニア・ツアーが始まりました」と語るフライシャー。PGAツアーでは、今年の全米シニア・オープンと同じニューイングランドにあるプレザント・ヴァレー・カントリークラブで行われた1991年の勝利しかない。「これまでの経験は、素敵な想い出です。学んだことといえば、自分自身を信じなければいけない、ということ」
セーラム・カントリー・クラブで勝利を収めた今、フライシャーは自分を信じる事が出来るはずだ。二クラス、ギル・モーガン、青木功、そしてジム・コルバートと5人が優勝戦線に絡む中、1人抜け出したのだから。ドナルド・ロスがデザインを手がけた6、709ヤード、パー70のコースで、2アンダーの68でまわり、12ホール連続パーを記録した。最終スコアは280のイーブンパー。2位タイのモーガンと青木とは、たったの1打差だ。
今は自分を信じられるだろう、ブルース・フライシャー?
「ここまで長い道のりだった」とフロリダ出身、52歳のフライシャーは語る。43万ドルの優勝賞金を手にしたとき、彼の目には涙があふれ、感きわまって声は震えていた。
「私はとても幸運です。去年は残念な年となってしまいました。私より腕の良いプレイヤー(へール・アーウィン)に負けてしまったからです。今年は4ホールを残した時点で、4人のスコアがイーブンパー。非常に難しいコースで、イーブンのスコアを維持したのはそのうちの1人だけでした」
フィールドの156人は「その通り」と答えるだろう。しかし、4日間の平均スコアを見ると、深いラフとお椀を伏せたようなグリーンがそれほど難しくなかったのではないかとも思われる。グリーンは予想よりも遅かった。
今回の全米シニア・オープンの平均スコアは75.014ストロークだった。そんな中、フライシャーは69という素晴らしいスコアを出し、初日のトップに立った。彼自身は自分のプレイに満足していなかったが、スタートから好調だったのは確かだ。
「マサチューセッツ州のボストン近郊は、私にとって非常に良いカルマに包まれているんです。1991年は私にとって、意味深い年でした。プレザント・ヴァレーでの勝利以来、過去にとらわれなくなったと思います。イアン・ベーカー=フィンチとのプレイオフは7ホールのサドンデス、私はツアーに復帰したばかりでした」とフライシャーは振り返る。
フライシャーは1984年から1991年にかけて、ツアー生活を中断しクラブプロとして働いていた。安定した収入を得て、経済的に家庭を支えることを選んだのだ。
ドナルド・ロスにも、因縁浅からぬものがある。
1960年、若き日のフライシャーはドナルド・ロス・インビテーショナルで優勝した。パインハーストのNo.5コースで、スコアは78だった。
「あの頃の自分は夢を追いかけていました。達成するべき任務、とでも言いましょうか」フライシャーはそう語る。「人生とは不思議なものです。私の夢は遂にかないました」
ゴルファーとしての履歴書に様々な"カルマ"を連ねたフライシャー、全米シニア・オープンはただ1人アンダーパーでモーガンとフランク・コナーに1打差をつけてスタートした。
2日目のスコアは71。全米シニア・オープンでの連続サブパー記録は、5ラウンドでストップした。この時点で、初日71、2日目を68で回った青木にリードを奪われた。
気温は30度近く、湿度も高くなってコンディションは徐々にきつさを増していく一方、試合は面白くなってきた。3日目69の青木は54ホールを終えて208というスコア。コルバート(75-67-67)とラリー・ネルソン(74-67-68)に一打差リードしていた。3日目の7月1日は悪天候のため途中で中止となり、フライシャーはその他3人のプレイヤーと並んで4打差の位置にいた。
全ては最終日にかかっていた。そしてフライシャーは次々と銃弾を打ち込んだ。
最終組から2つ前のグループでまわったフライシャーは、派手なショットのまるでないプレイながらスコアを68として、先にホールアウトした。モーガンは最終ホールでボギーを叩き、首位グループから脱落。スコアは70だった。
青木は17番ホールをボギーとして73、1オーバーの281で終わった。コルバートは見ごたえのあるプレイを続けていながら、最後の3ホールでボギー、パー、ダブルボギーと崩れ、結局73、282。最後6ホール中3ホールでボギーを叩き70でまわった二クラス、そしてアレン・ドイル(70)と並んだ。
最終日の結果に憤慨したコルバートは、モーガン同様、最終日の記者会見に姿を見せずにセーラム・カントリー・クラブを後にした。
ウェンディ・フライシャーは、ようやくフロリダ州コーラル・ゲイブルズのキャンパスで学んだ心理学の知識が役に立ったのかもしれない、と語る。
「1年目にブルースが達成した成果を考えると、もっと素晴らしい成果が期待できると思いました」ウェンディ・フライシャーは1999年のシーズンに7勝をあげ、プレーヤー・オブ・ザ・イヤ-に輝いた夫の成果を称える。「でもそう上手くは行かなかった」
「他の人たちにとって、(全米シニア・オープンのタイトルは)優勝のひとつに過ぎないかもしれません。でも私たちにとって、この勝利はとても素晴らしい意味があるのです。私は長い間、ブルースがシニア・ツアーの歴史に名を残すと信じていました」
今はブルースも、妻の言葉を信じられるだろう。
By Richard Mudry(GW)