日本で最初のアルバトロス 工藤幸裕の快挙/残したいゴルフ記録
世界でも数例…日本ツアー唯一のパー4エース/残したいゴルフ記録
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。今回は、ツアー施行後の希少な記録に目を向けて、日本の男女ツアーを通じて唯一となるパー4のアルバトロスを振り返ります。
日本で唯一のパー4アルバトロスが生まれた瞬間
規定打数よりも3打少なくカップインさせるアルバトロスは“ダブルイーグル”とも呼ばれ、プロツアーで最も刺激的なショットのひとつだ。米男子ツアーで語り継がれる伝説のシーンは、1935年「マスターズ」最終日の15番パー5で生まれた。ジーン・サラゼンが、残り220ydの第2打を4番ウッドでカップイン。1ホールで3打縮めて首位のクレイグ・ウッドに追いつき、翌月曜日の36ホールプレーオフでウッドを下すに至る値千金の一発として知られる。
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さらに希少なのがパー4のアルバトロス、つまりパー4におけるホールインワンだ。1998年「中日クラウンズ」の第2ラウンドで、中嶋常幸が1番ホールの1打目をカップに沈めるアルバトロスを達成。パワーと正確性を発揮し、世界を震撼させた。パー4でのアルバトロスは日本ツアーで初、世界でも類のない快挙だった。
同年「中日クラウンズ」は4月に開催され、愛知県の名古屋GC和合コース(6052yd/パー70)が舞台。いずれも前年に、「全米プロ」優勝のデービス・ラブIII、「全英オープン」優勝のジャスティン・レナードという2人のメジャー覇者を迎えて盛り上がった。その2日目の1番、打ち下ろしの341ydパー4。中嶋が放ったドライバーショットは快音を残して高い弧を描き、グリーンまで25ydの地点に着弾。そのままピンに向かって花道を走り、最後にコトンとカップに消えた。
だが、この情景描写は推測に過ぎない。なぜならこのホール、ティからグリーンまでは林に遮られて見えないからだ。中嶋は当時、「入った、入った、という声が聞こえて、何がどうしたという感じ。入ったんだ、やった、という感じだった」と声を上ずらせた。大会はラブIIIが優勝。中嶋は5位に終わったが、歴史的快挙に沸いた一戦となった。
「中日クラウンズ」は、1960年に「中部日本招待全日本アマ・プロ選手権」としてスタートし、スポンサートーナメントとして最長の歴史を刻む老舗大会。いまで言うワンオンホールを設置する大会の走りで、一発ワンオン狙いに年間90選手が38年間にわたって挑み続けた執念が、中嶋によって実った形だ。大会全体に、肩の荷が下りてホッとしたような雰囲気が流れた。
なお、その後は世界主要ツアーでも初のパー4アルバトロスが相次いだ。米男子ツアーでは2001年「フェニックスオープン」でアンドリュー・マギーが、欧州男子ツアーでは15年「アフラシアバンク・モーリシャスオープン」でハビエル・コロモが、米女子ツアーでは16年「ピュアシルク バハマLPGAクラシック」でジャン・ハナが達成している。
日本男女ツアーのアルバトロス史
日本で最初のアルバトロスは1968年6月、静岡・伊東市のサザンクロスCCで行われた「関東プロ選手権」第2ラウンドの1番パー5で生まれた。工藤幸裕が第2打を放り込んで以来、アルバトロスといえばパー5の第2打と決まりきっていた。男子ツアーでは今日まで約50人余りがアルバトロスを達成しているが、中嶋を除きすべてパー5である。
日本の女子ツアー初のアルバトロスは、1984年7月、廣済堂札幌CCで行われた「北海道女子オープン」最終日。29歳の増田節子が4番405m(編注:当時はメートル表示。換算すると443yd)のパー5で達成した。右ドックレッグで打ち下ろしの残り180mから5番ウッドで放った会心の第2打は、花道を駆け上がって見事カップイン。日本初、いや、この時点で米女子ツアーにもなかった女子初のアルバトロスであった。ゴルフは何が起こるかわからないから、本当に面白い。(武藤一彦)
- 武藤一彦(むとう・かずひこ)
- 1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。