「日本オープン」回顧録 AON時代から“ニューエイジ”へ/ゴルフ昔ばなし
2020年 日本オープンゴルフ選手権競技
期間:10/15〜10/18 場所:紫CCすみれコース(千葉)
「日本オープン」のトロフィに懸けるAONの思い/ゴルフ昔ばなし
国内男子メジャー初戦「日本オープン」が15日から千葉県の紫カントリークラブすみれコースで開催されます。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の連載対談「ゴルフ昔ばなし」では、1927年から始まって数多の死闘が繰り広げられてきたナショナルオープンのこれまでを振り返ります。初回は、“名勝負”を聞かれると語らずにはいられない青木功、尾崎将司、中嶋常幸のAON時代にフォーカス。トロフィに懸ける思いと時代の流れともに変遷していった大会の背景に迫ります。
■「日本オープン」のトロフィのための“スペース”
-1965年に青木がプロデビューし、その5年後の1970年に尾崎、1975年に中嶋が続きました。3人の中で最初に「日本オープン」のタイトルを手にしたのは1974年大会を制した尾崎。優勝後に訪れた尾崎の自宅ではトロフィへの執念を感じさせる瞬間がありました。
<< 下に続く >>
三田村 当時の尾崎は“第1期黄金時代”と言えた。1973年の「マスターズ」で8位になり、どうしても「日本オープン」に勝ちたいと思っていた時期。自宅のリビングには数々のトロフィを飾る棚があって、「ここに日本オープンのものを置く」という空きスペースを用意していた。
宮本 もう“そこ”に置くという場所を作られていたんですね。
三田村 そうそう。ただ青木にとっても「お金で買えるのであれば(日本オープンの)トロフィを買いたい」と言うほど、日本オープンに対する思いがものすごく強かった。尾崎の大会初優勝となった前年の1973年に、青木が最終18番で、2打目をフックさせて左の池に入れて痛恨のOB。それで転落して2位になったという歴史的な大会がある。
宮本 青木さんは体格に恵まれ、プロ入り後すぐにすごいと言われていたんだけど、ジャンボさんの方が先に優勝して、ずっと勝てなかった。鷹巣南雄さんにフェードを教わるようになってから強くなった。
三田村 千葉の鹿野山CCでとにかくフェードを打つ練習をした。グリップが動かないようにガムテープで手元をぐるぐる巻きにして、そのままご飯を食べて…。そこまでして持ち球をフェードに変えた。日本オープンに勝てない、というのが青木の一つの原動力になっていた。
■ジャンボの手が震えた歴史的大会 1988年・東京ゴルフ倶楽部
―青木はその後、六甲国際GCでの1983年大会で16回目の挑戦にして念願のタイトルを戴冠しました。1985年に中嶋が東名古屋CCで念願の勝利を収めると、翌86年に日本人では50年ぶりの2連覇を達成。1987年に3連覇に臨みますが、青木が執念の逆転劇を見せます。1992年大会までの計10年間でAONが9勝という、3人によるトロフィの奪い合いが展開されました。
三田村 「日本オープン」が始まったのは1927年。創成期はプロよりもアマチュアの方が上手くて、JGA(日本ゴルフ協会)、赤星六郎さん、大谷光明さんといった先人たちが「プロゴルファーを育てなければ、日本のゴルフ界全体が良くならない」と言って、プロを育てることに一生懸命だった。選手のレベルアップを目的とした、難しい、名門コースで大会を行った。しかし、トーナメントはお金が無いと開けない。のちに開催のためのお金を出してくれるコースを軸に選定する時期が訪れた。
三田村 ただその後、「ナショナルオープンは日本を代表するコースでやるべきだ」という声が大きくなり、いわゆる戦略性がある名コースでやるという方向で再スタートしたのが80年代。AONが争い、尾崎が最終日、70㎝のウイニングパットを沈める前に手が震えてアドレスを解いた1988年大会は、ちょうどそんな時期だったんだ。
宮本 前年の1987年、久しぶりに「マスターズ」にAONがそろった。ジャンボさんは長いスランプから立ち上がった時期。経済成長の時代背景、役者に、コースに…とタイミングがすべてそろったのが当時の「日本オープン」。コースが良ければ、選手の技量が引き出されて試合がおのずといい展開になる。そんな中で選手からタイトルにかける思いが伝わってきて、見るほうはワクワクした。88年は東京GCで試合があるというのもドキドキしたし、その表彰式にAONが並んで出席したのだから、本当に盛り上がった。
三田村 尾崎がスランプを脱し、かつ正真正銘の復活をした。「日本オープン」という競技の歴史の中でも、名勝負という意味でもすごく大きなものになった。
三田村 (メジャーではない平場の)“スポンサートーナメント”は、出資する企業の都合で大会が突然終わってしまう可能性がある。トロフィが受け継がれることもストップしてしまう。ジョン・デーリーが「全英オープン」で優勝したとき(1995年)、トロフィ(クラレットジャグ)を眺めながら、トム・モリス、ジャック・ニクラス…と名前を読んでいって、「…この下に俺の名前が刻まれちゃうんだよな」って言ったの。カップに名前が刻まれる、ということは自分が歴史的に消えないで残るということ。ナショナルオープンは、選手がそう思えるかどうかに価値がある。
尾崎が1994年大会で「日本オープン」5勝目を挙げた後、翌1995年大会以降は伊澤利光の初制覇や、尾崎直道の連覇など少しずつ世代に変化が訪れました。次回は90年代中盤以降の変遷をひも解いていきます。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」