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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

中嶋常幸の存在感とAONの関係性/ゴルフ昔ばなし

2018/05/02 11:55


現在63歳の中嶋常幸選手は英才教育を受けたジュニアゴルファーとして登場し、プロ転向後は日本ツアーで通算48勝をマーク。青木功選手、尾崎将司選手と激しい争いを繰り広げた一方で、海外メジャーでも好成績を残し、PGAツアーにも身を置きました。ゴルフライターの三田村昌鳳氏、ゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載「ゴルフ昔ばなし」の“トミー中嶋編”は今回が最終回。一時代を築いたAONの関係性について考えます。

■ 米国撤退から復活まで 中嶋を見守っていたジャンボ

―1989年春、宮本カメラマンとともに米ツアーを転戦していた中嶋常幸選手は、突然日本ツアーに帰ることを決めました。前年のメジャー「全米プロゴルフ選手権」では3位に入る活躍を見せながら、ツアーの転戦は苦労に満ちたものだったそうです。

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宮本 実は当時、トミーはジャンボ尾崎さんのことが気になって仕方なかったようなんだ。今よりも情報が少ない時代。日本からたまに来るニュースをいつも気にかけていた。スランプから復活したジャンボを支えたコーチの後藤修さんに教えを請おうとした。千葉・成田に「練正館(れんせいかん)」という施設を作り、再生を図った。ただ、しばらくは迷い道から抜け出すことができなかった。
三田村 中嶋はアドレスからトップまでの形で、ほとんどフックボールしか打たないスイングに変わっていたんだ。いろんな球筋を打てた選手が…。
宮本 でもそんなとき、見かねて助言をくれたのはジャンボさんだったんだ。ある日「宮本、お前はトミーの友達だろう。ひとこと伝えてやってくれ。『球筋は、ひとつじゃないんだぞ』って。それだけ言えば分かる」って。

―1990年「関東プロ」で3年ぶりの復活優勝を遂げた中嶋選手は、その年さらに2勝。94年まで年間複数回勝利を飾りました。

宮本 トミーは長い期間にわたって活躍した選手。「日本オープン」で言うと、1985年から94年までの10年間でAONは9勝した。中でもすごいと思うのは、この間はウッドの素材がパーシモンからメタルに変わった時期でもある。大げさに言えば“文化大革命”みたいなもの。その変化に苦しんだ選手が多くいた中で、彼はそれを克服した。1990年に小樽CCで行われた日本オープンはすごい戦いだった。米国から帰ってきてAOに挑み、最終日にジャンボに4打差の3位からスタートすると「69」を出して逆転した。涙を浮かべたのは本当に珍しいことだった。
三田村 中嶋は日本に帰ってから、よりすばらしいゴルファーになったと思う。米国では神経を研ぎ澄ましているだけの時間が長くて、どうしても孤独になった。撤退したことによって、心のキャパシティも広がったような気がする。

■ AONの関係性とは

―論じる人によっては、時代は「AON」ではなく、「AO」もしくは「AO+N」だった、つまり青木&尾崎のライバル関係に中嶋は一歩遅れをとる選手だった、という意見もあります。改めて、中嶋常幸というプレーヤーの存在とは何だったのでしょうか。

三田村 日本のゴルフ界にとってはやはり「AON」だったと思う。中嶋自身は「青木さんがいて、ジャンボさんがいる。僕なんかまだまだ」という気持ちを強く持っていて、自分から「AON」と言うことはなかったけどね。
宮本 外野から見ると、3人のライバル関係というのが面白かった。直線ではない、三角形。それが不思議な緊張感を生み出した。
三田村 世代がみな違うのがまた良かったと思う。青木は尾崎より5歳年上で、尾崎は中嶋よりも7歳上。団塊の世代の人々は青木、尾崎を応援し「昭和30年前後の生まれの若造なんて…」という空気もあった。でも、それがバラエティに富んでいて面白かった。
宮本 その後に倉本昌弘をはじめとした大学ゴルフ部出身の選手たちの時代が来る。彼らはみな非常に仲も良くて、また別の雰囲気があった。でもね、あの3人、AONは仲良しじゃない! 平気で相手の悪口を言うし、ののしり合っている(笑)。1987年の日本オープンなんか、青木さんはウィニングパットを決めた瞬間、中嶋に向かって「どうだ!」って指をさすんだから。最近、日本オープンのチャンピオンズディナー(開幕前日に行われる歴代王者による食事会)が面白い。お酒が入って、当時のことを話し出すと止まらない。中嶋が「ジャンボさんは僕に優しかったけれど、青木さんは冷たかったなあ」と言うと、青木さんは「キミは態度が悪かったからな!」と、いまだにやり合うんだから(笑)。
三田村 確かに数年の間、中嶋が立っていたのはAOと同じ土俵ではなかった。そこは米ツアーだったんだ。向こうで定着して戦おうとした姿勢こそが、異色ではあった。当時、日本には「なんでアメリカなんかで苦労しなきゃいけないんだ。予選通過に一生懸命になって…こっちにいれば、ラクに年間数千万円を稼げるのに」なんて口にするプロもいたけれど、彼は日本のゴルフ界に新しい価値を生み出した。

三田村 1978年「マスターズ」の13番で13打をたたき、同じ年の「全英オープン」では17番で9打を記録。脱出に4回かかったバンカーは“トミーズバンカー”と呼ばれるようになった。本人にとっては恥辱だろうけど、そう語り継がれるのは名選手のひとりだからこそ。中嶋は天才ではない。努力を積み上げてやってきた。尾崎みたいに起用に絵も描くわけじゃない。「世界一、美しいスイング」と言われても、「自分ではそうは思っていなかった」と言っていた。プロゴルファーは“ないものねだり”をしながら、実力を蓄えていく。その典型例で、コンプレックスを武器にコツコツとやってきたスターのはずだ。

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三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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