宮里藍の“オール5”/海外ゴルフ回顧録
欧州ツアーで最初の勝者になった男 アントニオ・ガリード
スペインのアントニオ・ガリードは1972年4月15日に、欧州ツアーが発足して最初の大会となった「スペインオープン」で、3ホールに及ぶプレーオフの末に同胞のバレンティン・バリオスを下して優勝。ツアー史の1ページ目にその名を刻んだ。
1972年「スペインオープン」はゴルフの豊かな歴史における重要な転機となった。正にこのとき、スペインのパラスGCで新たなプロゴルフツアーである欧州ツアーが産声を上げたのである。
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1972年以前にも欧州では数々の大会が開催されていた。しかし、ツアーの生みの親であるジョン・ジェイコブズが中心となり、欧州開催の大会の賞金やポイントから年間王者を決定する枠組みを結実させたのはこの年のことだった。
これにより、フィールドは多くの国際色豊かなゴルファーで彩られ、選手たちはタフなコンディションでの勝負へと繰り出していった。
「ピレネーから日がな暴力的で凍てつく風が吹き付けるなか、賞金総額1万ポンドの『スペインオープン選手権』第1ラウンドで、パー73を打ち破ることができたのはわずか7人のゴルファーのみだった」と、当時マイケル・ウィリアムズはデイリー・テレグラフ紙で書いている。
第1ラウンドを終え、首位に立ったのは「70」をマークした米国のデビッド・オークリーであり、1打差の2位にはスペインのアンヘル・ガジャルドが続き、イングランドのトミー・ホートンとアイルランドのジョン・オレアリーがさらに1打差で続いた。
2日目に入ると、“スペインゴルフ界の優しい巨人”と形容されたバレンティン・バリオスが一気に4打差の首位に立ち、折り返し地点で先頭をひた走る展開となった。
大会は3日目に劇的な展開を見せ、コンディションがやさしくなったにもかかわらず、バリオスが「78」と崩れたことで、先頭はイングランドのガイ・ハント、オークリー、そしてスペインのアントニオ・ガリードの3人が並ぶ三つ巴の状況となった。また、ブライン・ヒューゲットが「69」をマークしたこの日は、ヨーロピアンツアーで初めて70切りが達成された日となった。
最終局面までドラマの続いた最終日は、バリオスとガリードが4日間を「293」として首位で並んでホールアウトし、ハントは最終グリーンで3パットを喫してプレーオフへ加わるのを逃した。サドンデスのプレーオフは、3ホール目を3打のバーディで上がったガリードが制した。ウィリアムズは最終日のレポートの中でこの勝利を“スペインゴルフ界にまた一つ自慢の種が増えた”と表現した。
その後、ガリードは欧州ツアーでのキャリアにおいてスペイン人ゴルファーの先頭を走る選手の一人としての立場を確立した。
その後の14年間でさらに欧州ツアー4勝を挙げた彼は、1977年には「マドリッドオープン」と「ベンソン&ヘッジス国際オープン」で優勝し、年間2勝でキャリアベストとなる年間3位に入った。
また、同年には偉大なるセベ・バレステロスとタッグを組み、フィリピンのマニラで開催された「ゴルフワールドカップ」でスペインを代表してプレーした。このスペイン人コンビはチーム戦で3打差の勝利を飾り、レジェンドのゲーリー・プレーヤーが優勝した個人戦ではバレステロスが6位に入り、ガリードはその1ストローク後方の8位に入った。
当時全盛期にあったバレステロスとガリードは、その2年後に初めて「ライダーカップ」欧州代表に選出される快挙を成し遂げた。1979年の「ライダーカップ」は、大会史における重要な転機となり、それまで米国代表と英国及びアイルランド代表の間で行われていた隔年開催の大会は、この年から米国代表対欧州連合全体という構図になった。
何かしらの史上初を達成するコツを得たガリードは、その後、1990年代にもその才覚を発揮した。当時、ガリードは欧州ツアーのシード権を持っていながら、1989年に発足して初期段階にあったチャレンジツアーで母国開催の大会に出場したのである。
結果は、彼が母国で初めて欧州ツアーの大会に臨んだときと同じだった。ガリードは、その後チャレンジツアーで優勝することになる何人ものスペイン人選手の草分けとして新たに道を切り開いたのである。
チャレンジツアーで成功を収めたガリードは、ステイシュアツアー(当時はヨーロピアンシニアツアー)でも2勝を挙げ、欧州の全3ツアーで優勝を遂げた最初の選手となった。一方、彼の息子のイグナシオはまずチャレンジツアーで優勝を果たし、その後は欧州ツアーで2勝を挙げている。
イグナシオもまた、史上初を果たすガリード家の系譜を継ぎ、1997年初めてヨーロッパ大陸で開催された「ライダーカップ」に選手として出場した。これにより、ガリード親子は、パーシーとピーター・アリス親子に続く、「ライダーカップ」に出場した2組目の親子となった。