池田勇太の“アナザースカイ”/アジアンツアー公式
ゾー・モウ:完璧を愛するミャンマー・シャン州の英雄/アジアンツアー公式
30年近くシンガポールを拠点とするミャンマー人ゴルファーのゾー・モウは、6月28日で53歳。サイモン・ウィルソン(PGAプロ)がアジアと日本ツアーで活躍したこのベテランを取材し、彼のキャリアにおける多くのハイライトについて話を聞いた。
1997年2月、タイCCで行われた「アジアホンダクラシック」の17番ホールでゾー・モウが彼のトレードマークである290yd超えのロングドライブを放ったとき、そこに集まった大勢のギャラリーから熱狂的な拍手が沸き起こった。
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それは、ミャンマー出身の若者が求めてきた瞬間であったが、今回はことさら特別な状況だった。すなわち、それは最終日最終組で、世界的な注目を浴びていた。なぜなら、彼が一緒にプレーしていたのは、他の誰もがなし得なかったほどにゴルフを変えようとしている新人プロ、タイガー・ウッズだったからだ。
プロになって初めてタイでプレーをしていたその21歳のアメリカ人は、すでにPGAツアーで3勝を挙げていて、多くの期待と歓迎を受け、ときに制御不能な興奮を引き連れていた。
いまだかつてアジアで経験のない前代未聞の一週間は、最初から最後までウッズの一人舞台だった。彼は6打差をつけて最終日をスタートして、終わってみれば10打差をつけて勝利した!それは、2カ月後のマスターズで後続に12打差をつけて初勝利を飾ることを世界へ示す予兆となった。
だが、バンコク郊外にあるタイCCのラスト前のホールで、ウッズは珍しくティショットを右に押し出して池に入れるというミスを犯した。
「彼が怒っているのがわかった」とゾーは思い起こす。
「彼はキャディのフラフ(マイク・コーワン)にもう1球くれといって、(池の横から)救済を受ける代わりにティからまた打ったんだ。彼は私より30yd飛んでいた。私はグリーンを狙う2打目に5Wを打ったけど、彼は6Iだった」
「18番ホールで私はまた素晴らしいティショットを打ったが、彼は2Iで私の1Wと同じ飛距離だった。彼は違うレベルにいて、ラウンドが進むにつれて私はただの傍観者に過ぎないことを理解したよ」
半狂乱となった群衆に取り囲まれたなかで、ゾーはトップ20に入る健闘をみせた。
結果は期待したものではなかったが、ゾーのキャリアの中ではとても意義ある瞬間の1つだった。
長身で絹のように滑らかなスイングを持った彼は、ミャンマーが輩出した素晴らしいスポーツ選手の一人で、アジアンツアーだけでなく、1996年から10年近くプレーをした日本ツアーでも大いなる成功を収めた。
彼は1997年にジュロンCCで行われた「シンガポールオープン」を含めてアジア地域で通算21勝を挙げた。若い時にはマレーシアサーキットで3度の賞金王にも輝いている。
ゾーはマイア・エイ、チラ・ハンとともにミャンマーのゴルフ界を切り拓いた「3偉人」の一人である。
マイア・エイは1970年代にはじめてミャンマーの名を世界に知らしめた選手で、プロ通算6勝を挙げている。
そして同国最高のゴルファーとされるハンがすぐに続き、アジア有数の試合をいくつも制し、1999年にはアジアンツアーの賞金王に輝いた。
3人は「シンガポールオープン」の歴代優勝者でもある(マイア・エイは1981年、ハンは1994年に優勝)。
アジアンツアーのもっとも魅力的で永続している特徴の1つとして、その多様性を通じて、たぶん誰も期待していないような国々から優れた選手が出現することを容易にしていることが挙げられる。
ミャンマーは、アジアのゴルフ界に寄与することを期待されなかった国の1つだが、発展に寄与したことは間違いなく、そしてこれからもそうだろう。
ゾーは1989年にプロとなり、当時22歳で限られた資金しかなく、ツアープロとしてやっていく見通しは暗かったが、ゲームで自信をつけることに長い時間はかからなかった。
「私がプロになって初めてミャンマーから出たとき、財布の中には700ドルと、1つのゴルフセット、1つのスーツケースしか持っていなかった」とゾーはいう。彼はミャンマーのシャン州ラシオ出身で、父は主任技師だった。
「私はマレーシアにいるチャン・ハン(チラハンの兄弟)のところに滞在しようとしていたが、ビザが下りなかったのでバンコクに1カ月留まって200ドルを使い、所持金は500ドルになってしまった」
「国内サーキットをプレーしようと思ってたどり着いたマレーシアでは、キャメロンハイランドで行われた最初の試合で1300リンギット(※現在のレートで約3万2500円)を獲得した。1989年12月のことだった。それから、2戦目で3位となって1700リンギット、3戦目はプレーオフで負けて3000リンギット。それが、私のキャリアのスタートだった」
マレーシアでの成功で培われた自信を持って、彼はアジアンツアー挑戦を決意した。当時はアジア太平洋ゴルフ連盟(APGC)と各国ゴルフ協会によって運営されていた。
まだQスクールやツアー制度が導入される以前だったので、選手たちはマンデー予選に出場しなければならなかった。
ゾーは言う。「お金をすべて使い切ってしまったので、マレーシアのチャンのところに戻って、またマレーシアサーキットでお金を稼いだんだ」
ゾーはマレーシアのTDCツアーで何十勝も挙げて、すぐにアジアンツアーで戦えるレベルとなった。
彼は当初ペナン(マレーシア)に住んでいたが、彼のスポンサーであるパンウェスト(シンガポールの老舗ゴルフショップ)が90年代初めに親切にもシンガポールに拠点を用意してくれた。
彼がキャリアにおける最大の優勝をつかんだのは、その場所だった。
「1995年以降、良いプレーをしていたけど勝てなかった。だから(1997年の)シンガポールオープンに来たときは、そろそろだろうと感じていた」とゾーはいう。
最終ラウンドが始まるとき、彼はタイのブーンチュ・ルアンキットを筆頭として迫りくる後続集団とは4打差だった。しかし、彼は67、69、69、そして72の通算11アンダーで悠々とプレッシャーに打ち克ち、2位のアメリカ人フラン・キンに3打差をつけて、優勝賞金8万750ドルを獲得した。
以降も多くの勝利が期待されていたが、驚くべきことに、ゾーはキャリアを通じてプレーオフで7回負けている(アジアンツアーで3度、日本で4度)。
「いまプレーしたら、もっとたくさん勝てると思う。当時は完璧を求めすぎていた。もっとそのままの自分を受け入れていたら、より多くのトーナメントを勝てただろう。たった1つの完璧なスイングを求めていた」とゾーは言う。
「とても技術に執着していた。完璧なスイングを求めていたけど、それは人生における最大の過ちの1つだった。マーダン(ママット)らみんなは、神様が君に良いスイングを与えてくれたのに、どうしてそれを変えようとするんだ?と言った。つまるところ、自分の昔からのスイングを信頼して、基本に忠実でなければならない。それがやるべきことのすべてだ」
彼は完璧を求めてたびたびアメリカに飛び、ブッチ・ハーモン、デビッド・レッドベター、ロバート・ベーカー、フィル・リットソンといった世界一流のコーチに指導を仰いだ。
ゾーは彼の完璧を求める探究心が、ザ・シンガポール・アイランド・カントリークラブで生徒たちを教える現在の方が役立っていると認めている。
「いまでは良いことだね。私のすべての経験を生徒たちに伝えることができるから」と、2011年からミャンマーナショナルチームのコーチも務めるゾーは言う。
それだけでなく、ゾーにとっては怪我との戦いも多かった。
彼は2003年にタイで行われた「ジョニー・ウォーカークラシック」で椎間板を痛め、手術を余儀なくされた。
「そのあと、2005年にはプレーが下降線になった。身体を動かすのを止めて、手と腕だけでスイングをするようになったけど、それは良くない。すべてを失った」という。
2007年には、ミャンマーで育った頃に罹患したC型肝炎に由来する肝臓の感染症となり、13カ月間プレーすることができなかった。
2015年にはチェンマイ(タイ)で行われたアジアンツアーの試合中、ラフから打って右手首をひどく痛めた。彼は6カ月間ツアーから離れ、その時期にティーチングに傾注した。
さらに最近では、2018年にビシャンパーク(シンガポール)でジョギング中に転倒し、左膝と右手首を骨折した。彼はまさに日本のシニアツアーの出場権を獲得したところだった。
「転んだとき、気も失ったけど、幸運にも通りがかりの人が助けてくれて自宅に戻ることができた。その年は20試合はプレーするはずだったのだけど」
彼は今年も日本でプレーするはずだったが、新型コロナウイルスの感染拡大がそれを阻止した。
ゾーの妻である、ゆきこさんは日本人だが、彼女は日本にいて、ロックダウンの影響で数カ月会うことができていない。
彼は一人の時間をトーナメント再開に向けたトレーングと減量に当て、忙しくレッスンもこなしている。
ここ数年、彼の生徒の一人にはアジアンツアーのコミッショナー兼CEOのチョー・ミンタンがいる。
ゾーは、キャンベラ(オーストラリア)育ちでミャンマー出身のチョーを15歳から教えているのでとてもよく知っている。
「彼はうまいよ。でも、プレー量が少ない。うまいのにそれを試す機会がない。だから、自分がどれだけ才能があるかわかっていない。最近は本当によく飛ばすよ」とゾーはいう。
ゾーはたしかに思い切った決断をした。そして、過去を振り返らずに、アジアのゴルフ界におけるレジェンドの一人としての地位を築いた。
情報提供:ASIAN TOUR