プロ最初のホールインワンは?/残したいゴルフ記録
日本で最初のアルバトロス 工藤幸裕の快挙/残したいゴルフ記録
2020/04/26 08:15
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。
パー5の2打目が「入っちゃった」
日本プロゴルフで最初のアルバトロスは、1968(昭和43)年6月28日、サザンクロスCC(静岡県)で開催された「関東プロ選手権」初日に、工藤幸裕(くどう・ゆきひろ)によって記録された。当時は72ホールを2日間で争うタフな日程。初日の19ホール目、495ydパー5の1番ホールでそれは生まれた。
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アルバトロスとは、そのホールに設定されたパーよりも3打少ない打数でカップインすること。“ダブルイーグル”とも呼ばれ、パー5の場合は2打でカップに沈めれば達成となる。
工藤のティショットはフェアウェイ右サイドをとらえ、ピンはグリーン左のバンカーサイド。スプーン(3W)で打った第2打は、持ち球のフェードで花道を駆け上がり、グリーンをとらえるナイスショットだった。「うまくいったな」と歩き出すと、グリーンサイドにいた数人のギャラリーから拍手喝采。次いで「入ったぞー」の声が聞こえ、工藤は「入っちゃんたんだ」と喜びに浸った。
1番ホールのロケーションは、相模湾を望むなだらかな打ちおろし。「平坦だったら2つで乗ることはないが、ティショットは右フェアウェイにあり、花道がグリーン左サイドにあったので持ち球で攻めることができた。会心の当たり。でも入るとはね」と、うれしさより驚き。人呼んで“ぎょろ目の工藤”の大きな目が、さらに大きくなっていた。
日本で最初のアルバトロス 特別賞はあった?
1926年創設の「日本プロ」と「関西オープン」、27年の「日本オープン」に次ぎ、31年から始まった「関東プロ」は日本ツアー史上、「関西プロ」とともに4番目の古い歴史を刻むクラシックトーナメントだ。そんな大会で生まれた初のアルバトロス。だが、工藤にとってはその後のことの方が、忘れられない出来事だったというオチがある。このほど82歳の工藤本人から、こんな話を聞くことができた。
「1番のアルバトロスのあと、2番ではバーディが出た。3番はパー。そして4番は459yd、打ち上げの最難関のパー4。4番アイアンで高い球を打つと、なんと、これが直接入って今度はイーグルが出た。4ホールで1アルバトロス、1イーグル、1バーディの6アンダー。背筋に寒いものが走った。落ち着きを失った? いや、その逆。怖くなってしまった」。スコアはその後、下降線をたどり、後半18ホールの好スタートを生かせなかった。4ラウンド終了時で順位は大きく後退。「中村寅吉さんが14アンダーの大会レコードタイ記録で優勝したのに比べて、わが身を思うと情けなかった。アルバトロスの特別賞? 初のケースで何もなかったと記憶している」
なお、当時を振り返る記事に「この日は雨と霧の悪コンデションで、工藤が第2打を打つ時はグリーンがまったくみえなかった」とあるが、今回のインタビューでは、そのような事実はなかったことが分かった。
ツアー施行後はアルバトロスが次々と
当時31歳。千葉・我孫子GCの少年キャディから22歳でプロ入り。師匠は林由郎で、青木功、尾崎将司ら多くのプロを育てた名手だ。工藤は当時、千葉・船橋CCに所属し、後に茨城・水海道GCに移った。弟の吉彦も我孫子出身の兄弟プロだ。
日本でのアルバトロス第2号は、ツアー制がスタートした1973年「フジサンケイクラシック」(埼玉・高坂CC)で達成した陳健振(台湾)。第3号に同年「日本オープン」(大阪・茨木CC西)で記録の新井規矩雄、第4号に松田司郎が続いた。デビッド・イシイ(米国)が5号、6号と連続でマークしたのは76年のこと。日本ゴルフツアー機構に記録が残る85年以降では、これまで計41回のアルバトロスが生まれ、今やかつてほど珍しくもなくなった。それだけに忘れたくない、工藤の快挙である。(武藤一彦)
- 武藤一彦(むとう・かずひこ)
- 1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。