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後世に残したいゴルフ記録

プロ最初のホールインワンは?/残したいゴルフ記録

2020/02/18 17:00


国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が「記憶」と文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい「記録」として紹介します。

■ 1949年「日本プロ」最終ラウンドで

ゴルファーなら1度は経験してみたいと思うホールインワン。日本プロゴルフの公式競技で最初にホールインワンを達成したのは、戦前と戦後に活躍した棚網良平(たなあみ・りょうへい)だ。

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1949年(昭和24年)9月14日から2日間にわたって千葉・我孫子GCで開かれた第17回「日本プロ選手権」。第2次世界大戦の影響で、6年間の中断を経て再開された大会の最終ラウンドだった。当時28歳の棚網は15番のパー3でエースを記録。これが、日本のプロゴルフ公式競技で最初の達成とされている。

■ 記念すべき一打の詳細は…

そんな記念すべきホールインワンについて、クラブの番手やカップインの状況など詳細は全く分かっていない。大会の公式記録にはトップ8までの成績の下に『ホールインワン、9月15日 棚網良平 15番(163ヤード)』との記載があるだけだ。

何がしかの賞金や賞品が出たのかどうかも一切、分からない。愛弟子の江連忠プロや、プロになった2人の息子さんのうち次男の通隆さんにも聞いたが、プロゴルフ界で初のホールインワンについては「初めて聞いた」と驚きの声をあげるだけだった。

戦争で生き残った58人のプロが集まった大会は、2日間72ホールのストロークプレーで争われた。1日36ホールのタフな大会は林由郎が小野光一に2打差をつけて優勝し、賞金3万円を獲得した。棚網の順位は不明だ。

■ ホールインワンが吉兆に?

棚網は1921(大正10)年5月17日生まれ。日本橋が日本の中心だった時代、キツネやタヌキが闊歩(かっぽ)して郊外と言われた、東京・世田谷の出身だ。戦前に自宅近くの駒沢村、現在の駒沢オリンピック公園にあった東京ゴルフ倶楽部で研修生になった。コースの埼玉・朝霞への移転に伴い、元の「東京」に対し「秩父(ちちぶ)」の愛称で呼ばれた同倶楽部からプロ入りした。

左利きで、当初は左打ちで始めたゴルフを途中で右打ちに変えた。そのため飛距離が落ちて苦労したらしいが、小技に活路を見出し、戦後は相模カンツリー倶楽部(神奈川県大和市)所属のトッププロとして活躍した。

プロ初のホールインワンは、棚網にとって吉兆となった。翌1950年、ホームコースの相模CCで行われた伝統の公式戦「関東プロ選手権」で地の利を生かし、プロ初優勝。さらに1960年、マッチプレー形式で争われた茨城・大洗GCでの「日本プロ」では、決勝戦で体重90キロ、23歳の飛ばし屋・細石憲二を相手に39歳の熟練技を光らせ、土壇場の17番で1アップとし、逃げ切ったのだった。

■ アマや女性の初達成者は?

なお、日本で最初のホールインワン達成者とされるのは、1906年(明治39年)6月3日、日本のゴルフ発祥の地・神戸ゴルフ倶楽部の六甲コース3番(126yd)で記録したアマチュアのE.D.ドルフィンガー。女性では、関西女子ゴルフ界のトップアマ・西村まさで、1926年(大正15年)に「六甲、17番をhole in oneす」(原文のまま/西村寛一著「日本のゴルフ史」)との記録が残されている。(武藤一彦)

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武藤一彦(むとう・かずひこ)
1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。

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