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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

東京タワーから世界のアオキへ/ゴルフ昔ばなし

2018/02/21 07:30

取材協力/Restaurant CHIANTI

20世紀のゴルフシーンをゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏が振り返る「ゴルフ昔ばなし」。尾崎将司選手を中心としてきたストーリーに、青木功選手が加わります。現行のツアー制度が施行された1973年以降、日本ツアーで通算51勝。欧州ツアーでもタイトルを手にし、1983年「ハワイアンオープン」で日本人として初めて米ツアーで優勝した選手になりました。“世界のアオキ”は御年75歳。現在は、国内男子ツアーを統括する日本ゴルフツアー機構(JGTO)の会長を務めています。

■ 釣りや競馬の生活から…青木功を変えた「ジャンボ」

―青木功選手は中学生時代に地元・千葉の我孫子ゴルフ倶楽部でキャディのアルバイトとしてゴルフに触れ、卒業後に東京都民ゴルフ場に就職。師匠となる林由郎プロに才能を見出されます。1964年に21歳でプロテストに合格しましたが、デビューから初勝利(1971年関東プロ)を挙げるまでに5年以上を要しました。

三田村 尾崎よりも青木の方が年上であり、先にプロになったのも青木だった(青木がプロテストに合格した1964年当時、高校球児だった尾崎は海南高で春の甲子園を制覇。1970年にプロゴルファーになった)。くしくもプロ初優勝は同じ1971年。青木はそれまでは、なんとなく気ままにキャリアを過ごしてきたというか…絶対に負かしたいというライバルがいなかった。鷹巣南雄(青木とは我孫子中時代の同級生/ツアー5勝)はもちろんいたけれど、自分よりも年上に名選手が多かった。ただ、ジャンボが出てきて変わった。自分にないものを持っている選手、「この野郎!」と思える選手を見たことで、釣りや競馬が“中心”の生活を改めるようになった。
宮本 連載の第1回でお話ししたように、青木さんは当時「東京タワー」と呼ばれていた。でもジャンボが出てきて「コンコルド」の異名を持つようになってから、真価が発揮された。なんだかんだ言って、当時は身体的に恵まれていて、運動神経が良い人はみんな野球をやった。青木さんもゴルフの前は野球をやっていたんだ。
三田村 青木さんの才能からすれば、若い頃は「ちょっと頑張ればいつでも勝てる」くらいの気持ちでいたんじゃないだろうか。でも「尾崎に勝ちたい」という思いがすごく強くなり、目標とする相手が明確になったことで、才能を必死に磨くようになった。人間って誰しも、そのちょっとの“きっかけ”がなかなかないものだけれど、青木にとってはそのひとつがジャンボだったと思う。

■ 勝っていたら暴動!? バルタスロールの死闘の衝撃

―1976年に初めて日本ツアーの賞金王になった青木選手は、1978年から4年連続でそのタイトルを獲得し一時代を築きました。一方で活躍の場を海外にも広げ「世界のアオキ」としての地位を確立していきます。1978年、イングランドで行われた「世界マッチプレー」で海外初勝利。1983年に米ツアー初勝利の金字塔を打ち立てますが、海の向こうで最大のトピックスになったのはその3年前、1980年の「全米オープン」でした。メジャー最多勝利(18勝)を誇るジャック・ニクラスとの“バルタスロールの死闘”だったと三田村氏、宮本氏は口をそろえます。

1980年の全米オープン。青木功(右)は帝王ニクラスと歴史的な死闘を演じた(Photo-by-Phil-Sheldon Popperfoto Getty-Images)

三田村 やっぱり「全米オープン」でのニクラスとの戦いは、青木さんのキャリアにとっても、日本のゴルフ界にとっても非常に大きかった。バルタスロールの死闘は世界にインパクトを与えた。初日から4日間、“帝王”と同じ組でプレーしてサンデーバックナインまで争ったんだから。最終日を首位タイで両者がスタートし、最終的には2ストローク足りず2位。その戦いぶりに強い思い入れが残っているのは、決して本人だけではない。
宮本 ニクラスは前年の1979年にツアーで1勝もできていなかった。1978年に「全英オープン」で優勝したけれど、米国内でのメジャータイトルは1975年を最後に見放されていた。だから母国の声援はすごいものがあった。でも青木さんは、特異な感覚の持ち主だ。「自分は英語が分からない。ジャック、ジャックという声は全部、自分を応援しているんだ」と考えるようにしたという。そうでもしないと負けてしまうと思ってね。

三田村 青木さんは不思議なタイプで、好成績を出す大会の直前はたいてい、あまり良くなかった。その年の「マスターズ」も予選落ち。のちに「ハワイアンオープン」で優勝する前の試合(フェニックスオープン)も予選落ち(その直前の2試合もロサンゼルスオープン68位、ボブ・ホープ・デザートクラシック70位)。それが追いつめられるとすばらしい結果が出る選手だった。
宮本 バルタスロールは17番、18番でパー5が続く。青木さんの最終ホールの第3打は完ぺきだった。追いつくにはイーグルしかない場面。ハワイアンオープンでは実際に最後にPWでの3打目をカップインさせて勝ったけれど、「あのシーンよりも全米オープンの方が自分の感覚では入ったと思った」そうだ。ニクラスの「272」は当時の「全米オープン」の最少ストローク(現在は2011年にロリー・マキロイが記録した「268」)になった。ただ、青木さんの「274」も当時の記録を塗り替えるものだった。それくらいスゴイ戦いだったんだ。
三田村 ニクラスはその年の「全米プロ」も勝って、メジャー通算17勝目を挙げた。それが1986年「マスターズ」での史上最年長(46歳)優勝、「ジャック・イズ・バック」につながっていく。もしも青木が勝っていたら…暴動が起きていたかもしれないね。そのくらいの熱気だった。

■ 日本人初の米ツアー勝利 ジャンボはその時どこにいた

―1983年2月13日、日本のゴルフ界は新しいステージに立ちました。ワイアラエCCで行われた「ハワイアンオープン」最終日。ジャック・レナーに1打差の2位で迎えた最終18番(パー5)で、青木選手は左ラフからの第3打でPWを握ります。柔らかな放物線を描いたボールはピン手前にワンバウンドし、そのままカップイン。土壇場での劇的なイーグルで逆転し、日本人として初めて米ツアーで優勝しました。

三田村 僕は当時、ジャンボと弟の尾崎健夫と一緒にロサンゼルスにいた(尾崎は翌週の「サンディエゴオープン」出場を控えていた)。その日はちょうどテレビでハワイアンオープンの様子を見ていてね。優勝争いの最中、ジャンボはソファーに横になっていたが、最後のシーンで健夫が「入っちゃったよ! 勝っちゃったよ!」って大騒ぎした。その瞬間、ジャンボはソファーからゆっくり起きて…ひとこと「三田村、オレはきょうから自分の頭の中から青木功を消すから」と言った。正直なところ、その言葉の正確な意味は今でも分からない。想像するに、ジャンボの中でも青木は目の前のライバルで、技術を盗んだりする対象だったのが、その時を境に自分の求めるゴルフをより明確にしようと思ったんじゃないか、と思うんだ。

PGAツアーのYoutube

「東京タワー」のニックネームは、いつしか「世界のアオキ」へと変わりました。そうであっても、青木選手にとって尾崎選手は誰よりも倒しがいのあるゴルファーであり、尾崎選手にとってもまたそうだったようです。次回はAO、それぞれの共通点と違いについて分析します。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
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