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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

中部銀次郎と“ミタさん&タクさん”の出会い/ゴルフ昔ばなし

連載「ゴルフ昔ばなし」は日本のアマチュア界で輝いた故・中部銀次郎を特集中。「日本アマチュア選手権」で通算6勝をマークした中部選手は当時のプロにも愛され、現代のエンジョイゴルファーにも通じる金言を残し、ゴルフと向き合う姿勢の在り方を伝えました。実は本対談のゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の出会いも、伝説アマがきっかけだったといいます。

中部銀次郎は誰と回ってもスコアメークがうまかった

―「日本アマ」をはじめとしたタイトル戦に加え、プロが参加するトーナメントにも出場した中部さん。経営者・サラリーマンゴルファーだったこともあり、ときには一般アマともプレーしました。三田村さん、宮本卓さんも何度かラウンドされたことがあるとか。

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三田村 1970年代以降、私は週刊アサヒゴルフ(後に廃刊)という雑誌で尾崎将司選手に密着した一方で、中部さんの連載を1年以上担当した。週に3日ずつはジャンボ邸と中部さんに会って取材をするような生活だったなぁ。
宮本 トッププロとトップアマを同時期に(笑)。
三田村 だよね(笑)。中部さんと初めてラウンドをご一緒したのが、太平洋クラブ御殿場コース(静岡)。中部さんと僕と組んだダブルスでやって、前半が勝ち。するとハーフターンで、相手チームに「後半はフルバック(のティ)でやりましょう」と言われて、私は嫌がってね(笑)。初体験だったから。しぶしぶ回って、最悪のスコア。すると、中部さんはラウンド後、私に「フルバックから回ることを、なぜあんなに拒否するんだ?」と言って続けた。「前半も、必ずしもパーオンをしていたわけではなかっただろう。基本的にはボギーオンが中心となるプレーなら、ティショットの位置が20yd、30yd下がっても、スコアはさほどは変わらないはずだ。ただ君は、後ろから回ることに過剰に拒否反応を起こしたことで、前半のいい流れを切ってしまった」。いま言われてみれば、そうなんだよ。
宮本 僕は1980年代に中部さんと三田村さんたちが創った中部さんを中心にした「シルバークラブ」の仲間に入れてもらったのがきっかけ。クラブのゴルフに初めて参加した時に、中部さんとご一緒させてもらったんだ。それはそれは、ど緊張ですよ。中部さんはラウンド中、ほとんどしゃべらないけれど、同伴競技者のプレーの内容もよく覚えてくれていた。それが夜の酒の席での“解説”につながるから、本当にありがたい思いだった。

「迷った分だけ曲がる」

三田村 ハーフで「60」くらい叩くアマチュアとプレーしていても、中部さんはいつも試合のように1アンダー、2アンダーといった具合で回っていた。「下手な人と回るとペースが崩れる」なんて言う人は少なくないが、それでイライラする様子もなかった。ただ、一緒に回っていて印象的な言葉をくれることも多かった。ボールがディボット跡(打球痕)にあるとき、キャディさんは「出してもいいですよ」と言うけれど、中部さんは「三田村、そのまま打とうよ。これから君が試合やコンペに出て、同じ状況になったらどうする? 一度も打ったことがないショットを打って成功する可能性は極めて低いだろう。ディボットからはどんな球が出るか、どう難しいのか、良い練習になる」と話した。そう考えれば、“6インチ”動かす必要もないんだ。
三田村 あるシーンで、どうしても入れたい1ピンほどの距離のパットを前にして、ついキャディさんにラインを聞いちゃったわけ。すると、駆け寄ってきた。「そんなの自分で考えなさい。どう切れるかを判断して、外れても、身をもって感じることが(良い意味での)蓄積になる」ってね。結局そのパットはわずかに外れたんだけど、中部さんには「それ、迷った分だけ曲がったよ」と言われた。その経験はいまもプレーする上で、僕にとってはすごく大きい。
宮本 中部さんは朝、ドライビングレンジで時間がない日は「3球だけ打ってきていいかな」と言ってスタートした。体調が悪そうな時も、練習場で出た球筋を信じてその日のプレーを組み立てた。無理やり、スイングを治そうとするんじゃなくてね。曲がるなら、曲がるショットを利用しようとした。
三田村 3球打てば、その日、どういうゲームづくりをすればいいか解るということだね。お酒が大好きな人。夜はゴルフの話をしていると熱が入った。部屋の中で、壁に頭をつけてスイングをさせられたこともあったな。私が素振りすると、ゴツンゴツンと額がぶつかるんだけど、「ぶつからないのが正しいスイングだよ」と言われた。ある日、「バックスイングがうまく行かない」と言っただけで、手元(グリップ)のわずか20㎝あまりの動きだけを1時間半くらい指導されて…。「ドライバーは40インチ以上ある。スイングの始動で手元が1度ズレれば、クラブがトップに入ったときのズレはそれどころじゃない」と厳しかった。私は中部銀次郎という人は、天才だとは思っていない。努力家の極み。基本的な、傍目には、つまらないことばかりを続けられるのが天才なんだろう。「正」という感じは「一(つのこと)」に「止(まる)」と書けると聞いたことがあるが、まさにその通り。

ふたりが初めて出会った場所

―ところで、三田村さんと宮本さんの初対面のきっかけは中部さんだったと…。

三田村 (笑)1984年のことだね。東京ゴルフ倶楽部だった。
宮本 当時、僕はまだアサヒゴルフでの駆け出しのころ。上司に「中部銀次郎と中嶋常幸がプレーするから取材をしてこい」と指示されたんだ。「そこに三田村昌鳳という人物が一緒にいるはずだから談判して」と言われてね。
三田村 当時、私はもう週刊アサヒゴルフから独立して編集プロダクションを立ち上げていた。中嶋はアマチュア時代に中部さんと「日本アマ」のタイトルを争う選手同士だったわけ。1973年に中嶋は(当時)史上最年少の18歳で優勝。翌1974年には中部さんが通算5勝目を挙げたが、その大会で中嶋にカジュアルウォーターでのボールの処置を指摘したちょっとした“因縁”があった。その試合からちょうど10年ということで、中嶋が「中部さんと久しぶりにプライベートでゴルフをしたいな」と言い出して、セッティングをした。
宮本 クラブハウスの玄関で、まず中嶋さんに取材をお願いすると、「みんなが良いならいいよ」とOKを出してくれた。中部さんも承諾してくれた。ところが最後に現れた三田村さんが「ダメだ。帰れ」って…。何、この人? ってね。
三田村 彼らは「プライベート」という約束でのラウンドだったからね。
宮本 でも「三田村さんというのは、感じが悪い人だなあ」と思いましたよ(笑)。
三田村 私もその日のことは書かなかった(笑)。もっとも、10年後ぐらいに、勝手に時効だと決めて書いたけどね(笑い)。驚いたのは、最終ホールで、中部さんが中嶋にひと言アドバイスしたんですよ。「常幸、首の角度が“2度”落ちているよ」。その言葉を聞いて、全身鳥肌が立ったのを覚えている。直前の試合で中嶋はクラブデザイナーに「アイアンのライ角を“2度”アップライトにしてくれ」と注文していたんだ。ちょうどその時期はアドレス時の前傾姿勢で、頭の角度が2度落ちていたからインパクトで詰まる感があったのだと符号した。いや、偶然かもしれないが、「2度」という数字が重なったんで驚きでしかなかった。

3月ももう終わり。いよいよ来月にはメジャー初戦「マスターズ」が行われます。今年、日本勢は4人が出場。中でも金谷拓実選手(東北福祉大)は、松山英樹選手が出場した2012年大会以来7年ぶりに日本人アマチュアとして参戦します。マスターズ前週となる次回が中部銀次郎編の最終回。オーガスタの地を踏む若きトップアマにエールを送ります。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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