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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

日本最強アマ 中部銀次郎を知っていますか/ゴルフ昔ばなし

春の訪れはゴルフシーズンの幕開け。4月のメジャー大会に向けて世界のプロツアーは熱を帯び、エンジョイゴルファーにも待望の季節がやって来ます。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載は今回から、生涯をアマチュアとして過ごし、日本のゴルフ界に多大な貢献をした故・中部銀次郎(なかべ・ぎんじろう)さんにスポットを当てます。「日本アマチュア選手権」で6回の優勝を誇った「プロより強いアマ」に迫ります。

■ 山口県出身

―中部銀次郎さんは戦中の1942年2月、山口県下関市で生まれました。マルハニチロ株式会社の前身・大洋漁業副社長、林兼産業会長だった中部利三郎さんの三男という家柄。環境には恵まれていたと言えますが、ゴルフとの出会いは意外な形でした。

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三田村 中部銀次郎さんは小さい頃、虚弱体質だった。医者にかかっても診断は原因不明。家からもなかなか出られず、『散歩でもしてみたらどうか』という話でゴルフ場に行ったのが始まりだった。利三郎さんが『しょうがないから付いておいで』とね。
宮本 最初は体を少しでも強くするための、散歩みたいな感じだったんですね。
三田村 中部家は利三郎さんが福岡・門司ゴルフ倶楽部のメンバーで、家族でプレーしていて、そこに連れていかれた。唐戸の船着き場から電車とバスを乗り継いで、門司に行くのが日課になった。そこから徐々にクラブを握るようになったんだ。中学に入ると、利三郎さんが理事長を務めた下関ゴルフ倶楽部で腕を磨く。高校時代もそこでゴルフに夢中になった。

■名門コースで覚えたゴルフ

―中部さんは1958年、下関西高2年時に「関西学生選手権」で優勝。大学生も破り、その名をとどろかせました。その後、甲南大に進学し、在学中に「日本アマ」を2度制覇(1962年、1964年)。ナショナルチームのメンバーにも加わります。

三田村 中部さんの故郷といえるコースは4つある。門司、下関、大学時代にお世話になった廣野ゴルフ倶楽部、そして社会人になってから愛した東京ゴルフ倶楽部。中でも門司での記憶は生涯鮮明だったそうだ。ある日、斜面で空振りをしたが、それを「1打」に入れなかったことを父にこっぴどく怒られ、ズルいことはしてはいけないと幼心に刻んだ。もうひとつは「人間が持つ矛盾みたいなもの」を学んだという。クラブハウスの玄関先で父を待っていたとき、面識のない大人に『ボウズ、いま何時だ?』と聞かれたが、後から自分のことを『利三郎さんの息子』だと知ったその人は、態度を一変させた。人間の二面性を幼くして知ることになったんだね。そして下関でゴルフというスポーツの基礎であるコースの攻め方を覚え、大学時代に廣野で戦略性やスコアをまとめる技術を覚えた。年間の平均ストロークは、例年69台だったというから驚きだ。

三田村 ただし彼は幼い頃、体の弱さに加え、精神的な問題を克服した人間でもある。人と会うと照れて過度に緊張してしまう赤面症だったんだ。ゴルフの試合ではギャラリーもいるから、それだけで一苦労。だから中学時代に下関のデパートで訓練をした。階段を上り下りして、人とすれ違うことから始めた。最初は階段の端っこしか歩けなかったが、徐々に真ん中を行き来できるようになった。それから、デパートの店員に話しかける練習をした。自分の対人恐怖症がいかにゴルフにマイナスを考えて、お金のかからない方法で訓練をしたんだ。中部さんは天才と表現されるけれど、努力の人でもある。誰でもできそうなことを、一生懸命取り組んでやるのが本当の天才だとも言える。

■プロにならなかった理由

―学生時代にナショナルチームの一員として日の丸を背負った中部さん。卒業後も4回、社会人として日本アマを制しました。プロツアーにもたびたび出場しましたが、生涯アマチュアを貫きました。そのワケはなんだったのでしょうか。

三田村 もちろん体が必ずしも強くなかったことをはじめ、いくつか理由がある。その中でも彼にとって衝撃的だったのが1960年「アイゼンハワートロフィ」でのこと。アマチュアゴルフの国別対抗戦で、米国に行ったときのことだった。会場はペンシルベニア州のメリオンGC。プロになる直前のジャック・ニクラスが出場していた。
宮本 ニクラスがプロに転向するのが1962年。その前から“オハイオのシロクマ”と呼ばれた超有名選手で活躍を早くから期待されていた。当時の米国代表のキャプテンは「マスターズ」を作った伝説のアマチュア、あのボビー・ジョーンズだからね。すごい時代だ。
三田村 ニクラスのラウンドが終盤に差し掛かった頃、中部さんは実際にプレーを観に行った。ティショットを右に曲げた時点では『ニクラスも人間だな。これはグリーンを狙えない。刻むしかない』と思ったという。それがニクラスはそこから3Iですごい球を打ってグリーンに乗せた。そのショットを見て『おれは世界で戦う器じゃない。プロになるのはやめよう。井の中の蛙でいい』と思ったそうだ。“井の中”でトップになると決心した。
宮本 ジャックのショットはそれほど刺激的だったんだ。メリオンのラフは当時、今よりもっと深く、粘り気もあったはず。
三田村 その試合では、世界中から来たアマチュアがみなボビー・ジョーンズのサインを欲しがったんだ。クラブハウスの周りにできた長蛇の列に、中部さんも並んだ。メリオンのレストランのランチョンマットに書いてもらったんだ。ジョーンズはすでに脳の病気にかかっていたから、ペンを“グー”で握って描いてくれたそうだよ。中部さんはその隣で、ニクラスにもサインをもらった。裏には18歳当時の中部銀次郎のサインが記されている。控え目に、裏に書いたところに、彼の奥ゆかしさを感じるね。

プロゴルファーに転向することなく、アマチュアとしてキャリアを過ごした中部さんには“精錬”という言葉が似合います。プレー中は、ほとんどしゃべることもなく、どんなスコアでも淡々とホールを進めていたとか。そんな姿には多くのゴルファーが惹かれました。次回はその“中部銀次郎の教え”を紐解きます。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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