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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

スーパーアマからエリートプロへ 倉本昌弘を紐解く/ゴルフ昔ばなし

2018年の国内ツアーは男女ともに終盤戦。今年も賞金王、賞金女王争いの行方が注目されます。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載は今回から“AON”に迫ったレジェンドたちにフォーカス。まずはツアー通算30勝、永久シード選手のひとりであり、現在は日本プロゴルフ協会会長を務める倉本昌弘選手を特集します。

■ 石川遼、松山英樹の前に…ツアー史上初のアマチュア優勝

倉本昌弘選手は1955年9月9日、広島市で生まれ、10歳の時にゴルフを始めました。父が昌弘少年の面倒を見るためにゴルフ場に連れ出していたそうですが、それも実は父の精治さん自身が練習をしたかったから、という逸話も残っています。

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三田村 日本で最初のプロゴルファー福井覚治さんの息子である福井康雄さんのレッスンを受けていた父の影響で、倉本は康雄さんに指導を受けて育った。実家は広島にある老舗の和食割烹。中学生の時には広島ゴルフ倶楽部のクラブチャンピオンになるほどの腕前だったんだ。身長は(現在)164cmと小柄だったけれど、筋肉質。僕はゴルフ雑誌のグラビアで「豆タンク」とニックネームをつけたのを覚えている。

―広島・崇徳高時代の1973年には「日本ジュニア」で優勝。1974年の日大入学後はトップアマとして名を馳せました。「日本学生選手権」では4連覇、「日本アマチュア選手権」は3勝(1975、77、80年)を飾ります。さらに1980年にはアマチュアながらプロツアーの「中四国オープン」で優勝。のちにこの快挙を達成したのは現在、石川遼(2007年マンシングウェアKSBカップ)と松山英樹(2011年三井住友VISA太平洋マスターズ)だけです。

宮本 当時は「関東オープン」をはじめ、全国に各地区のオープン競技がたくさんあった。正直なことを言うと、当時の中四国は「アマチュアの倉本が出る」ということで注目されたんだ。
三田村 アマチュアにしてツアーに勝ったわけだけど、最近の石川や松山のような騒ぎにはならなかったように思う。ただし、プロ転向した翌1981年に初戦のツアー外競技「和歌山オープン」で優勝、ツアーでは4勝を挙げ、新人ながら賞金ランキング2位に入った(同年は青木功が4年連続で賞金王になった)ことで、一気にニュースになった。時代はまさにAONというところに、割って入るようなスーパールーキーだったんだ。のちにAONKという表現もされるようになったほどだ。
宮本 青木功、尾崎将司はそれぞれ千葉のゴルフ場に所属しながら腕を磨いた。中嶋常幸は父の教えを小さい頃から受けて今の“ジュニアゴルファー”の世界観を作った。一方で倉本は学生ゴルフの時代の到来を告げた選手。日大では湯原信光牧野裕とともに活躍し、ナショナルチームの一員として海外遠征にも出向いた。今、ツアーで活躍している選手たちにとっては当たり前になっているステップアップの下地を作ったんだね。

■ レジェンドアマとの関わりと異彩を放った価値観

―倉本選手はゴルファーとしての憧れの存在に故・中部銀次郎さんを挙げています。アマチュアとして生涯を送り、数々のタイトルを獲得したレジェンドでした。

三田村 倉本は若い頃、必ずしもプロに転向する強い熱意があったわけではなかったように思う。実力は折り紙付きだが、実家の手伝いをしながらゴルフを極めた時期もある。日本のアマチュアゴルフ界の第一人者として知られる故・鍋島直泰さん(旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主)の愛息、直要さんにも師事し、ゴルフがダイナミックに、より洗練されるようになった。ゴルファーとして人間性を高めることにも刺激を受けた。
宮本 マッシー(倉本のニックネーム)は表舞台に出てきた当初から、カシミアのセーターやベストを着ていたなあ(笑)。同じシャツは2回着ないとも言われていた。
三田村 鍋島直要さんはフットジョイのゴルフシューズをハーフラウンド、1ラウンド履いただけでゴルフ場の研修生にあげていたという話もあるくらいの人。そういう人にも影響を受け、歩く姿や食事をする姿にもいっそう気を配るようになった。
宮本 ジュニア時代から偉大なアマチュアゴルファーと多くの出会いがあり、今までにないツアープロの姿が映し出された。プロ、アマという垣根を超えた「ゴルファーとしての美学」みたいなものが、彼の中にはあるんだと思う。マッシーはね、“カメラマン泣かせ”の選手なんだ。プレーがとにかく早い。パッと打って、パッと歩きだす。僕たちがカメラを構えて、準備をする時間が短くて…。これはアマチュアゴルファーの原理でもある、プレーファストの考え方だよね。リズム感のあるプレーをしながら、さらっと良い球を打つところにカッコよさがあった。
三田村 当時の周りのプロゴルファーとは違う価値観を持っていたんじゃないだろうか。メディアの前でも新人で勝ちまくったときにも「まあ、こんなもんですよ」と鼻持ちならないコメントを残したことがある。でもそんな彼だからこそ、のちに「今のプロゴルフ協会じゃダメだ」というような先進的な考えを持ち、実行に移すようになったんだと思う。

倉本選手は永久シード選手となる黄金期を終えた後、日本のゴルフ改革に乗り出しました。現在シニアツアーを主管するほか、プロゴルファーのライセンスを発行する日本プロゴルフ協会(PGA)から、レギュラーツアー部門を切り離した現在の日本ゴルフツアー機構(JGTO)を1999年に発足させます。2014年にはPGAの会長に就任。次回はその視野の広さ、実行力の高さに迫ります。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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