朴セリ、伝説は終わらない
ゴルファーとしての最高到達地点とはプロなのか?~J・シャシリポーンの決断
毎年、多くの優れた学生ゴルファーがプロに転向する。すぐに華々しく活躍する者もいれば、厳しい下積みツアーで自らの技量を深め、弱肉強食のごとき世界で戦うためのしぶとさを身につけたのちに初めて花開く者もいる。もちろん、頂点のツアーにはい上がることのないまま、ツアープレイヤーであることをあきらめる者も多い。だが、24歳のジェニー・シャシリポーンは、おそらくそのいずれでもない。
シャシリポーンといえば、1998年の全米女子オープンでは月曜日の20ホールにおよぶプレイオフで朴セリに破れたが、72ホール目に14メートルのパットを放り込んだときの表情はいまでもわれわれの記憶の中で強い印象を残している。タイ出身の両親に生まれ、幼い頃からゴルフに親しんでジュニアですばらしい戦績を残し、デューク大学では3度もファーストティーム・オールアメリカンに選ばれた。全米オープンの後の全米アマチュアでも準優勝、カーティスカップのメンバーにも選ばれて、翌年はデューク大学ブルー・デビルズを初の全米大学チャンピオンの座に導くことに貢献した。そして、プロ入り。
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「彼女のスイングはかつてのようなリズム感がない。大学3年、4年のときのような自信に満ちたものではありません。全米オープンを闘った時のようなレベルではプレーしていないんです」
デューク大学のコーチ、ダン・ブルックスは、彼女がゴルフにおいて非凡な力を発揮できる理由の一部は、「いまを楽しむ」ことができるという彼女の能力だと言った。ブルックスにとっては、シャシリポーンが今秋、ツアーカードを返上して、ヴァージニア大学男子ゴルフチームのアシスタントコーチに転身したという知らせも、驚くべきことではなかったようだ。
シャシリポーンはプロになってからこれといった成績をあげられないでいた。フーチャーズツアーでの2年あまりの間27試合で予選通過が14回。獲得賞金額は5,512ドルにすぎない。一年目の1999年に75.11だったスコアリング・アベレージが2001年には76.60に落ちていた。ベストフィニッシュは99年のグレータ・リマ・フューチャーズオープンの6位。しかし、そうした低迷が転身の理由ではない。彼女には単に、ほかにしたいことがあったということだ。
「ゴルフは私にとって最重要項目ではなかったのです。もちろん、プロの生活は楽しかったけれど、私は自分が心の中では本当にやりたいことはこれじゃないって思っているのをわかっていたんです」
フューチャーズツアーに参加した3月、彼女はすぐに「なんてことなの。やりたいのはこれじゃないわと思った」そうだが、プロ入りを決めた大学4年当時にはすでに違和感を感じていたようだ。エージェントを選び、スポンサーを捜しまわってスケジュールをあれこれ検討するうちに、プレッシャーを感じるようになったという。
「私は賭け事が好きではないんですが、何だがギャンブルをしているような感じがしていました。ビジネスとしてのゴルフというものについては、初日から嫌いだったんです」
しかし、彼女はそこでやめることはしなかった。メリーランド州ティモニアムでタイ料理の店を開き、子どもには自分たちにはなかったチャンスを与えたいと願って勤勉に働いてきた両親のことを考えたからである。自分に何が期待されているかをわかっていたから。ツアーでは2度、優勝に絡むことがあって、闘いのスリルを味わうことを思い出すこともあった。
「そんな感覚を再び味わえたのはよかったんですが、私の心は依然としてどこかほかのところにありました。そして、今シーズンが終わった時には、まったく何も思い残すことはなくツアー生活をやめる気持ちになっていました」
ヴァージニア大学でコーチをするという仕事については、降ってわいたような話だった。ヴァージニア大のコーチのマイク・モラハンとは去年の夏、亡くなったルイス・チテンワ(Lewis Chitengwa)の追悼式をともに企画した。友人だったチテンワはヴァージニア大学を出てカナダツアーでプレイしていたが、彼の26歳の誕生日である6月30日、ある種の髄膜炎で突然亡くなった。シャシリポーンとチテンワは1993年、ジュニアの試合の練習ラウンドで一緒に回って以来の親しい友人だった。ジンバブエ出身のチテンワはヴァージニアでは2度、オールアメリカンに選ばれている。モラハンとシャシリポーンは、以来、電子メールでやりとりをするようになっていた。アシスタントコーチの話はたまたまその中で出たものだった。モラハンは学期が終わってすぐ彼女に打診し、翌週には、彼女はヴァージニア大学へ引っ越した。
「最初は驚きました。実家へ帰ったばかりでしたし、居心地がよかったんです。すぐにまた出ていくというのは抵抗がありました。とくに弟のジミーとまた離ればなれになるのはいやでした。でも、行くべきだという思いは強かった」
ヴァージニアへ行くのはモラハンがつくったルイス・チテンワ財団のために資金をつくることができるという点でも好都合だった。財団はアフリカの子どもたちにゴルフをする機会を与え、望む者にはアメリカでプレイするチャンスも与えることを目的としていた。彼らはカナダツアーの試合を5月に地元(Charlottesville)で開催するよう招致活動もしていた。
シャシリポーンのコーチとしてのキャリアは8月、ヴァージニア大学ゴルフ部員への衝撃的な紹介から始まった。モラハンは言う。
「ショックを受けたような表情をしている部員もいました。全米女子オープンを見ていたでしょうから、なぜ、彼女がそこにいるのか理解できなかったんでしょう」
12人の部員とシャシリポーンの間に大いなる信頼関係が築かれていった。彼女はともにコースを回り、練習場でアドバイスをした。
「あなたが来てくれてうれしいですって、言ってくれたんです。ほんとに感謝してくれて、私はそれにどう応えたらいいのかわからなかったんです。そんなことって以前、経験したことはありませんでしたから」
シャシリポーンは控えめな様子でそう言うが、ヴァージニア大学にとってはすばらしい秋になった。ヴァージニアはゴルフウィーク・サガリン・インデックス(Golfweek/Sagarin Performance Index)で現在45位。ハワイでの最終戦における勝利も含め、トップスリーに4度、入っている。しかし、シャシリポーンにとってのハイライトはなんといってもノースカロライナ州ダーラムへの「凱旋」だったろう。彼女の率いたヴァージニア大学キャバリアーズ(Cavaliers)はデューク・クラッシックで3位に輝いた。自称、ヘボ監督のモラハンは、彼女を指名コーチとして送り込んだのだった。
「そんなことは私にとってしたこともないようなことだったんですが、とにかく、そうすべき時だったでしょうね。面白かったですよ」
彼女の方は思い出しては感激に耐えないといった様子だ。かつて自分のホームコースだったところにヴァージニアのオレンジとブルーを身につけて立っているのは奇妙だったが、3位のトロフィーの銘板にはデュークのマスコットであるブルー・デビルと『コーチ』という文字が刻まれていて、いままで獲得したトロフィーの中で最高のものだといった。部員たちはトロフィーを彼女に進呈した。
皮肉なことなのか、シャシリポーンがアシスタントコーチに就任したその週に、ヴァージニア大は来年、女子ゴルフチームを作ると発表している。偶然だったようだが、彼女に依頼した時にすでにモラハンの頭の中には女子チームのこともあったようだ。モラハンはどっちにしろ彼女には長く面倒を見て欲しいと言っている。
シャシリポーンはコーチという仕事に手応えを感じているようだが、彼女の中にはまったくゴルフとは関わらない仕事を求めている部分もある。全米オープンをはじめ大きな試合の時にキャディバッグを担いできた兄のジョーイは言う。
「彼女のなかにはたくさんの野心があるのではないでしょうか。私は彼女がツアーを完全にあきらめたとは思えません。もっとも、彼女が自分のライフスタイルとして、喰うか喰われるかというツアーの世界を好むかどうかは定かではありませんが・・・」
「2年後の自分がどうなっているのかさえ、考えるのは難しいんです。とりあえず、現在の私の状況はとても気に入っています」
シャシリポーンはプロとしての復帰を否定してはいない。一つだけ言えるのは「いまの自分」に満足しているということだ。
全米女子オープンのブラックウルフ・ランCCでは、彼女はただ、プレイをしているのが楽しいというように見え、結果として何位になろうともかまわなかっただろう、彼女にとって勝利は必ずしも必要なものではないのだと、兄のジョーイは言った。再びプロの競技者としてツアーという頂点の場での闘いを楽しめる日が来るのか、それとも「ゴルフ以外の何か」を見いだすのか、彼女の生き方は多くのゴルファーにとって興味深い。
Lisa Antonucci(GW)