笹生優花が米ツアーメンバー登録 賞金100万ドルと5年シードを獲得
2021年 全米女子オープン
期間:06/03〜06/06 場所:オリンピッククラブ(レイクコース)(カリフォルニア州)
なじめなかった学校 8歳で「プロになりたい」 笹生優花を作ったもの
◇海外女子メジャー◇全米女子オープン 最終日(6日)◇オリンピッククラブ(レイクコース) (カリフォルニア州)◇6457yd(パー71)
75ホールを戦い抜き、日本人初の「全米女子オープン」チャンピオンとなった笹生優花。その戦いをロープ外から見守った父・正和さんは「(8歳でゴルフを始めて)11年…。懐かしいです…。子どもの夢をかなえさせるっていうことを、やっとできた。幸せですよ」とポロポロと涙をこぼした。
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日本人の父と、フィリピン人の母フリッツィさんの間に生まれた5人兄弟の一番上が優花だった。フィリピンで生まれ、4歳で日本に戻ったが、日本語がうまく話せず、学校にもなじめなかった。父のゴルフ練習についてきて「私もプロになりたい」と言い出したのは8歳のとき。当時、日本では宮里藍や石川遼が活躍し、全米女子オープンを制したポーラ・クリーマーにもあこがれた。
「プロになるには、ほかのことを全部あきらめないとダメだよ。楽しいことはまだあるのに、(プロを)選ばない方がいいんじゃない?」と父は言ったが、娘は毎日ゴルフがやりたくて泣いてばかりいたという。
「日本は(プレー代が)高いので、フィリピンのゴルフ場メンバーに知り合いがいて、向こうは子どもは無料でできるから、試しに連れて行って1カ月くらい毎日ゴルフをさせたんです。普通、子どもだったら飽きて帰りたいとかってなるけれど、腹が減ったとも言わないでずっとやっている。毎日やっていたから、本当に好きなのかなと思って3年生になるときに(フィリピンに)転校したんです」
それから、厳しいトレーニングの日々が始まった。学生時代に柔道や剣道、空手をやっていた正和さんは「下半身と背筋が弱いと何をやってもダメ」と下半身強化から着手した。朝起きると両足にそれぞれ250gの重りをつけて、寝る時に外す。半年後には500g、1年経つと1kg、1.5kgと徐々に重さを増していった。
自身もゴルフはシングルハンデの腕前だったが、ブッチ・ハーモンやデビッド・レッドベターをはじめに数々の技術書を読みあさり、その中から娘に適していると思われるものを伝えていった。
「毎回、同じところにシャフトが降りてこないと、真っすぐ打てない」という信念から、大きな鏡を購入して、その前で1日最低1時間の素振りをさせた。鏡には正面から見たトップでのシャフト位置と、横から見たダウンスイングのシャフト位置にテープを張り、毎回同じところを通すように指導した。同時にメトロノームで4拍子を刻みながら、1、2拍目で上げて、3拍目はトップで一瞬間を作り、4拍目で下ろしてくるというリズムを身体に刻み込んでいったという。
USGA(米国ゴルフ協会)が主催するUSガールズジュニアに初めて出たのは13歳。それ以降、USガールズジュニアに4回(2014、16、18、19年)、全米女子アマにも4回(16、17、18、19年)出場した。小5の夏からは日曜日以外毎日、夕方4時から7時まで英語の勉強も日課となった。
これまでに、アルゼンチンやインドネシアなど計16カ国でプレーをした。その中で、米国こそ世界最高峰の舞台だと認識した。中でも、全米女子オープンこそが、最大のタイトルであり、夢だった。その全米女子オープンを制覇して、米ツアーのメンバーにも登録した。ここから先は次のステージ。今後は軸足を米国に移していく。(カリフォルニア州サンフランシスコ/今岡涼太)