2014年 WGC HSBCチャンピオンズ
期間:11/06〜11/09 場所:シェシャンインターナショナルGC(中国)
松山英樹に寄り添う米国人通訳の人生
ゴルフの試合会場では、選手のスコアを示すボードを掲げるボランティアの姿をよく目にする。ボブ・ターナー氏も、1970年代後半の「ダンロップインターナショナル」で同様の役割を担っていた。それが世界を股にかけるキャリアへとターナー氏を導き、いまでは、世界で戦うゴルファーが言葉の壁に苦しまないよう支えている。
日本で開催されたその大会で、米国人のターナー氏は、ある大学チームのために働いた。東京にある早稲田大学のチームだ。彼はコースにいた唯一の米国人だった。
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ターナー氏は現在、母国の米国に住み、PGAツアーを戦う日本の若きスター松山英樹の生活を支えている。ターナー氏は、常に松山のそばに寄り添い、徐々に英語を身につけつつもまだ堪能ではない松山をアシストする役割を担っているのだ。
先日の「シュライナーズホスピタルforチルドレンオープン」2日目のラウンド後、電子製のスコアボードの明かりがパッティンググリーンを照らす中、松山は日が沈みかけても練習を続けていた。ターナー氏は近くにある腰高の白いフェンスの後ろで、練習が終わるのを静かに待っていた。
ターナー氏は昨年、松山がPGAツアーで放ったすべてのショットを見てきた。もちろん「ザ・メモリアルトーナメント」でプレーオフを制し、優勝を決めた3メートル弱のパーパットもだ。
松山は2014-15シーズン開幕戦となった「フライズドットコムオープン」で3位タイ、「シュライナーズホスピタルforチルドレンオープン」で10位タイという成績を収め、現在フェデックスカップランキングで9位につけている。今週の「WGC HSBCチャンピオンズ」にも出場する予定で、ターナー氏も彼のそばについている。ターナー氏は日本以外で開催される大会には、常に松山の通訳として付き添う。松山は2013年に日本ツアーで5勝をあげ、賞金王となり、現在はアジア選手として最高位の世界ランク23位となっている。
ワシントン州出身で、北カリフォルニアの高校に進学したターナー氏は、これまで数多くのスタープレーヤーの通訳を務めてきた。もともとはモルモン教会員として日本で2年間働いていた。現在のキャリアはまったくの予定外だったといえる。セベ・バレステロスやタイガー・ウッズが日本でプレーした際に通訳を務め、最近では日本のベストプレーヤーがPGAツアーに参戦するたびにサポート役を務めている。
61歳のターナー氏は「通訳をやっていて一番の喜びは、青木功、ジョー尾崎(直道)、丸山茂樹ら日本のパイオニアが、ツアーシードを長期にわたって保持するために戦う姿を見られたこと。当時の日本では、それがいかに大変なことか知られていなかった。今は英樹がその伝統を引き継ぎ、去年のメモリアルで優勝してみせた」と語る。
昨シーズンのフェデックスカップランキングを28位とした松山は、今のところスーツケースを持った生活を続けているが、米国での拠点となる住まいを探しているという。22歳を取り巻く4人の“チーム松山”の1人がターナー氏だ。
ターナー氏が来日し札幌に到着したのは、ブリガムヤング大で1年間を過ごした後の1972年で、モルモン教会員としての務めを2年果たすことが目的だった。北カリフォルニアのアーケータに住んでいた17歳のとき、末日聖徒イエス・キリスト教会に入信したことが転機となった。
ターナー氏は日本でのミッションを終えた後、アシスタントプロになろうとしていたが、計画通りにはいかなかった。
「大学に戻るしかなかった。でも、それが自分の人生で起きたベストな出来事だったと思う」
日本で後に妻となる浩子さんと出会い、務めを終えて北カリフォルニアに戻ると、すぐに結婚。ターナー氏はハンボルト州立大で研究を続けたが、浩子さんがホームシックに苦しんだため2人で日本に戻り、早稲田大で研究をやり遂げた。
「ダンロップインターナショナル」のスタッフの一人はターナー氏の存在に気づき、「なぜ日本にやって来たのか」というごく一般的な質問をした。どうして米国人が日本に来ることになったのか、誰もが知りたがった。ターナー氏は早稲田大を卒業すると、海外選手を日本で開かれるゴルフ、テニス、マラソンの大会に招聘する仕事をし、彼らの日本での生活を支えた。
ターナー氏は「日本オープン」で2勝を挙げ、日本でも大人気のセベ・バレステロスと松山に共通点を見出している。松山について「ゴルフが大好きなだけではなく、情熱を持っている」と語った。「情熱」という言葉に力を込め「彼はすぐにでも次の大会をプレーしたいと思っている」と続けた。
バレステロスらのほかにも、ジョニー・ミラー、ベン・クレンショー、ビリー・キャスパー、ロベルト・デ・ビセンツォが来日した際に通訳を担当した。
日本で10年を過ごし、ターナー氏は家族とともに1987年に米国に帰国。ターナー・コミュニケーション・インターナショナル(TCI)を設立した。息子のアレン氏もTCIに所属し、これまでに米メジャーリーグのシアトル・マリナーズに所属したリリーフ投手佐々木主浩の通訳に加え、ニューヨーク・ヤンキースに所属する外野手イチローの通訳を担当している。高校時代に野球をやっていたアレン・ターナー氏は、ブルペンキャッチャーを務めることもあるそうだ。
PGAツアーにフル参戦した尾崎と丸山はターナー氏の顧客。イチローがマリナーズに入団した際も、彼が通訳を担当した。彼らが米国生活に慣れるよう、ターナー氏はあらゆる役割をこなしてきた。
ターナー氏は、日本人選手がPGAツアーで克服しなければいけない3つの点として、多種多様な芝、長距離の移動、そして言語の壁を挙げる。
「(英語の分からない選手が)テレビで見て理解できる番組と言えば、ESPNかゴルフチャンネルくらいさ」とターナー氏は話す。
松山はターナー氏のサポートを受け、PGAツアーにうまく順応した。フル参戦1年目の昨シーズンは、最終戦の「ツアー選手権byコカ・コーラ」まで駒を進めた。
パネラブレッド(アメリカで大人気のベーカリーカフェ)の大ファンだという松山は「去年一つだけ苦しんだことがあって、それは食事だった」と、ターナー氏の通訳を介して話した。
「一番面白いと感じるのは、これまでと違ったことを経験して、美味しい日本食レストランを探すことかな。今のところ、この旅を楽しめているよ」