人種差別でボイコット示唆 パイオニアを救った覚悟/全米オープン事件簿@シネコックヒルズ<1896年>
◇メジャー第3戦◇全米オープン◇シネコックヒルズGC(ニューヨーク州)◇7440yd(パー70)
プロとアマチュアの垣根なく“ゴルファー世界一”を決める「全米オープン」が、8年ぶりにニューヨーク州シネコックヒルズGCで行われる。大会を主催する全米ゴルフ協会(USGA)創立時に中心的役割を果たした5クラブのひとつ。1896年の第2回大会をはじめとする過去5度の開催では、後世に語り継がれる“事件”が起きたことも…。名門コースで繰り広げられたバトルを少し斜めから振り返る。
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1896年の大会直前、複数の選手たちからUSGAに嘆願書が届いた。「“彼ら”の参加を許すなら、大会をボイコットする」――。人種差別の激しい時代で、黒人ゴルファーであるジョン・シッペンらの出場に対する猛烈な抗議だった。
シッペンは1879年にアフリカ系米国人の父と米国先住民の母との間に生を受けた。バージニア州で奴隷として生まれ、南北戦争後に自由の身となった父はハワード大で神学の学位を取得して牧師となった。シッペンが9歳の時、一家はニューヨーク州ロングアイランドへ移住。91年に12ホールのコースを創設し、クラブハウス建設などのために先住民らを雇ったシネコックヒルズでシッペンも働いたという。
その後、キャディとなったシッペンはスコットランド出身のプロゴルファー、ウィンリー・ダンの手ほどきでゴルフを始め、めきめきと力をつけていった。96年の全米オープンは、彼の才能にほれ込んだロスチャイルド、メロン、カーネギーといった財閥系を含むクラブメンバーが参加費を負担して出場にこぎ着けたものだった。
嘆願書を送った海外選手たちが開幕前日の木曜日に抗議集会を開くと、USGAの初代会長であるセオドア・ハブメイヤーが毅然と言った。「諸君、ここから去るのも留まるのも自由だ。我々はあす彼らとともに、諸君がいようがいまいが、大会を行う」。翌朝、一人も欠けることなく1日36ホール競技に臨んだ。
シッペンは第1ラウンド「78」で首位に立ったが、13番パー4でトラブルに見舞われた第2ラウンドで「81」と失速。トータル159ストロークは、優勝したジェームス・ファリウス(スコットランド)と7打差の5位タイだった。生涯6度の全米オープンに出場したとされているシッペンが最後にプレーしたのは1913年大会。それから48年のテッド・ローズまで、黒人選手の全米オープン出場はなかった。