珍道中だらけ?日本人の全英オープン挑戦記/ゴルフ昔ばなし
2018年 全英オープン
期間:07/19〜07/22 場所:カーヌスティ(スコットランド)
セベ・バレステロスの記憶/ゴルフ昔ばなし
男子メジャー第3戦「全英オープン」は19日(木)、スコットランド・カーヌスティで開幕します。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載は前回から、この最古のトーナメントを特集中。今回は同大会で3勝、「マスターズ」で2勝を挙げたセベ・バレステロス(スペイン)について迫ります。2011年に54歳の若さでこの世を去ったレジェンドは何を残したのでしょうか。
■ 少年時代の恋と英会話
―1957年4月9日、スペイン・カンタブリアで酪農を営んでいた一家に生まれたバレステロスは、7歳でゴルフを始めました。16歳だった1974年にプロになり、1976年には欧州ツアー初優勝を遂げて賞金王に。瞬く間にスターになりました。
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三田村 セベは小さい頃にゴルフ場でアルバイトをしていた。その丘の上に銀行マンの家に生まれたカルメンという少女がいて、その娘に恋をしていた。上達する過程で「世界一になったら一緒になれる」というモチベーションもあったんだ(のちに結婚し、2004年に離婚)。僕が初めて全英オープンの取材に行った1976年、鈴木規夫が10位になったロイヤルバークデール大会で、セベは優勝争いを演じて2位。まだ19歳だった。当時は英語を話せず、お兄さんにスペイン語から英語に通訳してもらっていた。それから先、ジーン・サラゼン(メジャー7勝のグランドスラマー/1999年死去)に「1日ひとつ、英単語を覚えなさい」と言われ、セベはそれを守って英会話ができるようになったんだ。
■ ボールは曲げるものか、曲がるものか
―バレステロスは1977年には日本ツアー「日本オープン」、「ダンロップフェニックス」を制しました。当時の20歳7カ月での優勝は、2007年に石川遼が15歳で優勝するまでツアーの最年少記録でした。3勝を挙げた全英での初優勝(当時22歳)、1979年のロイヤルリザム&セントアンズ大会最終日の終盤16番で見せた駐車場からの見事なアプローチは語り草になっています。
三田村 初めて彼を見たとき、本当に目がギラギラしていて、エネルギーむき出しの歩き方をしていたのが印象深かった。“駐車場ショット”の1979年の全英はジャック・ニクラスとベン・クレンショーに3打差をつけて勝った。セベはとにかくボールをよく曲げ、そこからのスーパーリカバリーで人々をひきつけた。でもクレンショーは「あいつにはトラブルショットがない」と言ったんだ。「セベはトラブルショットがうまいんじゃない。あいつにとってはあれが普通なんだ」って。
宮本 セベは「ボールなんていうのは曲がるものだ」という考え方で、ゴルフはとにかくコースと戦うものだということを教えてくれた。現代に多い、「自分のスイングがきれいだったらゴルフがうまくいく」という考え方とは反対だろうね。それにね、フォトグラファーの僕に言わせれば、曲がる選手ほど楽しい(笑)。ピンチになると、いつもとは違う画になるし、表情も豊かになる。それに当時はみんな帽子をかぶっていなかった。プレー中に髪が風でなびく。それがまたカッコよかった。今はキャップもあればサングラスもあって…。
三田村 セベのゴルフは派手だったけれど、ウェアはシンプルで紺と白のコンビネーションがカッコよかったね。
宮本 最近は技術革新のおかげで、ゴルフの世界も多くが数値化されるようになった。ショットの弾道はいくらでも数字で分析できる。ただ、それで失われているものもあると思う。アーノルド・パーマーやセベといったスターたちは、ボールが曲がることへの怖さがなかったように感じる。そんな姿勢も人々を惹きつけたんじゃないだろうか。
三田村 ゴルフはメンタルにおいて、理性と感性が入り混じって素晴らしいプレーが生まれる。数値化が進むことによって、ゴルファーは数字で理性ばかりを突き詰めるようになった。ボールを曲げられた方が、選手にとっては攻め方の自由度が高まる。まっすぐにしか打てなかったら、ピンチの時に前の木を避けられない。そういったときには、理性よりも感性を研ぎ澄ますことが必要だと思う。
■ アメリカには負けない 意地とプライド
―1980年、1983年には「マスターズ」で優勝。世界のゴルフシーンはパーマー、ニクラス、ゲーリー・プレーヤーの“ビッグ3”の後退の後、当時、元気のなかった欧州ツアー出身の若手たちが実力を示しました。ニック・ファルド(イングランド)にベルンハルト・ランガー(ドイツ)、イアン・ウーズナム(ウェールズ)…。彼らをけん引したのがバレステロスでした。
三田村 当時は“暗黒の欧州ツアー”と言われていた時代で、セベたちは「ツアーを盛り上げるためにはオレたちがメジャーで勝つことが必要だ」という目標と結束力を持っていた。欧州の選手たちはもともとたくましい。言葉も文化も違う場所で毎週戦って、いろんなものを吸収してきた。
宮本 そして欧州と米国の対抗戦「ライダーカップ」が彼らを育てた。すごい数のファンの前で、団体戦でプレーすることが彼らの実力をどんどん引き出した。オーストラリア出身のグレッグ・ノーマンは同世代の選手たちが活躍する中で、自分は出場できない対抗戦を見て、「プレジデンツカップ」(欧州を除く世界選抜と米国選抜の対抗戦)開催に、ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)とともに意欲を燃やした。すさまじいプレッシャーの中でショットを打つ環境に自分も身を置きたいと思ったんだね。
■ 54歳でこの世を去る セベと武士道の共通項
バレステロスは2008年の秋、脳腫瘍で倒れました。腫瘍摘出手術などを経て回復しましたが、2011年5月7日、闘病生活の末に54歳で生涯を終えました。
―三田村 セベで一番衝撃的だったのは1980年の「マスターズ」最終日。優勝争いのスタート前に、トロフィルームから出てきた彼はハンバーガーを食べながら歩いていた。パッティンググリーンで2、3球ボールを転がして、食べかけのハンバーガーをぐっと飲み込んで、ティグラウンドに立ったんだ。僕はなんだかもう、参った…という感じだったね。周囲の人だけでなく、国や欧州の期待を一身に背負っているところを、まったく感じさせない。新渡戸稲造の『武士道』の中に「真の勇気とは何か」という解説がある。「真の勇気は自分の心にどれだけ余裕があるか、というのとイコールだと。人間はピンチになった時こそ、ゆっくりと立ち上がり、まず周りを見回しなさい、それから自分のやるべきことをやることだ」というのが要旨。セベはそれに近い。ピンチになっても、外から見る限り、慌てふためくことがなかった。スペイン出身で猪突猛進のスタイルのように言われたが、周りを見る力が秀でていたのかもしれない。心にはいつも穏やかさ、真の勇気があったように思う。以前、スペインのドキュメンタリーで彼の手術前後の様子を放送していたが、そんなときでも考え方がものすごく前向きだった。死を目の前にしても、自分の中ですごく整理整頓ができている話し方だったんだ。
バレステロスのほかにもたくさんの偉大なチャンピオンを生んできた「全英オープン」。次回は3勝を飾ったニック・ファルド(イングランド)と5勝のトム・ワトソンを取り上げます。レジェンドとして今も優しくゴルフ界を見守るふたりの過去の戦いぶりから、全英で勝つためのポイントを探ります。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」