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2018年 マスターズ
期間:04/05〜04/08 オーガスタナショナルGC(ジョージア州)

三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

夕闇のマスターズ表彰式 日本人選手が立つ日/ゴルフ昔ばなし

2018年のメジャー初戦「マスターズ」は5日(木)、ジョージア州のオーガスタナショナルGCで開幕します。グリーンジャケットを争う戦いには今年、松山英樹池田勇太宮里優作小平智の日本勢4人が出場。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載でお伝えした“マスターズ編”の最終回は、日本人選手とオーガスタとの戦いの歴史をひもときます。

■ ジャック、セベ、ノーマンと争った中嶋常幸

―日本人選手が初めて「マスターズ」に出場したのは1936年。陳清水と戸田藤一郎がオーガスタの地を踏んだ第3回大会でした。陳清波と小野光一が出場した1963年以降、日本勢は約50年にわたって毎年参戦していますが、いまだグリーンジャケットを羽織った選手はいません。

三田村尾崎将司は1972年に初出場。翌1973年に8位でフィニッシュした。当時は憧れのジャック・ニクラスをドライビングレンジで待ち、彼の技を吸収しようと隣の打席で練習をしたんだ。SWから同じように番手を上げて打っていったが、1Wショットが全然違う。ニクラスのボールを拾うキャディはほとんど動かないが、尾崎のボールはあちこちに散った。最初にスランプに陥ったきっかけのひとつは、この精度の違いからスイングを変えたことにもあったんだ。
宮本 AON時代も今も、日本人選手にとって「マスターズ」は特別。オーガスタで学び、新しいことにトライする。片山晋呉が出場していた時には、やさしいUTや、アマチュアをターゲットにしたアイアンなんかもキャディバッグに入れたり、それよりずっと前に中嶋常幸も5Wを使ったりしていた。当時は男子のトッププロが使うのはまだ珍しくて、1W、3W、2Iという流れを壊し、マスターズ用に2Iに替えて5Wを入れた。オーガスタを攻略するためには、それほど高いボールが必要だった。
三田村 AON時代に最も優勝に近づいたのは中嶋。初めて出場した1978年には13番(パー5)で「13」をたたいてワースト記録を作ったが、1986年大会ではグレッグ・ノーマン(オーストラリア)、セベ・バレステロス(スペイン)らと争った。ジャック・ニクラスが46歳で史上最年長優勝を達成し、“ジャック・イズ・バック”となった年のこと。けれど、中嶋はその後、「サンデーバックナインで、あと一歩を踏み出すことができなかった」と振り返っていた。それが彼にとって最も悔やまれること。

■ オーガスタへの畏敬

―オーガスタナショナルGCの1番ホールでは、選手がティペグを指すのに緊張で手が震えると言います。日本人選手のマスターズでの最高成績は伊澤利光(2001年)と片山晋呉(2009年)の4位です。

三田村尾崎直道はオーガスタのジャンボの宿舎で、光沢のあるガムテープをじゅうたんの上に張って、パッティングの練習をしたりしていた。日本にはないような高速グリーンに対応するために、ツルツルの面の上でボールを転がしてね。中嶋に昔、「マスターズの球筋論」というのを聞いたとき、オーガスタはずっと高いドローボールを要求し続けてきて、最後の18番でいきなりスライスに近いボールを打てと言われる、それがとんでもなく難しいと言っていた。常に限界ギリギリのショットを打たせるが、それが次のショットに影響してはいけないんだ。

宮本 ただ、どの選手も当時はオーガスタに対する恐れ、畏怖する気持ちがあまりに大きかったように思う。伊澤利光も、丸山茂樹も…。
三田村 ジャンボも中嶋も、グリーンジャケットに「あと一歩」だったかと言われると…正直なところ、そこまで近づけたとは思わない。伊澤は4位になったとき、アーメンコーナーの入り口である11番で池に近い左のピンを攻めきれなかった。かといって、フェードヒッターだから右から回してくることもできなかった。そういう意味で限界を感じていたのかもしれない。
宮本 僕は数年前までは、片山が一番近かった選手だと感じる。晋呉は非常に頭の良い選手で、オーガスタのパトロンをうまく味方につけた。テンガロンハットが定着した後も、自分のパフォーマンスを引き出すための雰囲気作りがうまかった。そうはいっても、それは少しでも順位を上げるため。優勝から逆算したものではなかったように思う。

■ 涙が出た…松山英樹への期待

―日本人選手はいまだメジャー優勝に届いていません。しかし2011年のマスターズで松山英樹選手がローアマチュア賞を獲得。表彰式に出席しました。プロ転向後はPGAツアーを主戦場にしてすでに5勝。年々、タイトル奪取の期待が高まっています。

三田村 1970年代から毎年マスターズの取材に行っているが、2011年に松山が活躍するまで、僕が生きている間にセレモニーの一席に日本人選手が座ることはないだろうと思っていた。アマチュアとはいえね。そういうイメージがわかなかった。だから彼が座ったときには涙がこぼれた。
宮本 私も撮影しながら涙が出た。前年の「アジアアマチュア選手権」で優勝し、マスターズ委員会が与えた出場権を生かして、彼はあの場所に立った。本当に日本人が表彰式に出るのは、夢のまた夢のまた夢の…という感じだったんだ。彼のショットはまだ若いころから、トッププロとそん色がなかった。すさまじく硬いグリーン、難しいピンポジションに対して、球の落ち方が芸術的。アートだと思う。マスターズのパトロンは、観戦スタイルとして同じホールで何人もの選手を見る。だから彼らは他選手と比べて、松山がいかに良い選手かということを知っている。だから今、松山に飛ぶ声援はひときわ大きい。
三田村 松山が出てくるまでは、我々メディアにとっては1大会で“マスターズが2回あった”。ひとつは日本人選手のマスターズ、もうひとつが本当の優勝を争うマスターズ。AON時代でも、似て非なる戦いが行われていたように思う。だが、松山にはそういう限界を感じない。マスターズでの優勝争いの中に、確かに日本人選手がいる。
宮本 松山の良いところは「100点はない」と感じているところ。その日の調子を受け入れる姿勢を、彼は若くして手に入れた。今年は左手のケガをして、スポーツ選手にとって最も恐れるべきことを経験した。それでもチャンスはあるはず。ゴルフの世界にもチャンスを拾える人と、取り逃す人がいる。まだ若い。もちろんまだ終息感を出す必要はない。のめり込み過ぎず、勝負勘を保ってやってほしい。
三田村 ケガは良い意味で小休止になるかもしれない。去年の松山はすべてを高いレベルで準備したが、どのメジャーもあと一歩が届かなかった。休んだことで、足りなかった部分が改めて見えてくると期待も大きくなるはずだ。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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