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2018年 マスターズ
期間:04/05〜04/08 場所:オーガスタナショナルGC(ジョージア州)

三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

遥かなる…ゆえに美しきオーガスタ/ゴルフ昔ばなし

4大メジャーの初戦「マスターズ」は、今年も4月にジョージア州のオーガスタナショナルGCで行われます(5日開幕)。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の連載対談は今回から、春の訪れを告げる祭典にフォーカス。“マスターズ編”の序盤は大会の歴史と魅力を独自の視点で紐解きます。

■ “南部”オーガスタで熟成されたマスターズ

―マスターズは1934年、ジョージア州出身の伝説的ゴルファーであるボビー・ジョーンズと、実業家のクリフォート・ロバーツによって創設。アトランタの東・約280kmにあるオーガスタを舞台にしてきました。

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三田村 僕が初めてオーガスタに取材に出向いたのは1974年、ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)が2度目の優勝をした年でした。もう45年くらい経つんですね…。当時、最初に思ったのは「とにかく遠いなあ」と。ただ僕は、オーガスタがこのように都市から離れていること、マスターズが片田舎で行われていることが大会を成熟させてきたと思う。ゴルフトーナメントは日本の場合は多くがスポンサー主導で開催されているが、米国のトーナメントは“その土地ありき”で開かれてきた。日本の村祭りであったり、年に1回サーカスが来たり、というように。ある意味で自然発生的に行われた。仮にマスターズがロサンゼルスやニューヨークで開かれていたら全然違う大会になっていたのでは。
宮本 私はゴルフを撮影する前に、R&Bをはじめとした音楽の写真を撮影していて、黒人音楽にも触れていました。だから南部のオーガスタに昔から憧れがあった。盲目の歌手レイ・チャールズや、ジェームス・ブラウンも、オーガスタ、ジョージア州に根差していた時期がある。米国では1950年代以降、公民権運動が盛んになった。一方でマスターズはそのオーガスタにありながら、当時は白人のクラブであり続けたんだ。
三田村 オーガスタは、今でこそアトランタから続く高速道路(20号線)ができて近くなった。オーガスタ空港からもすぐに着く。ただ、昔はそうはいかなかった。レンタカーで道に迷って、迷って、たどり着いたところがダウンタウンの危険地域だったりする。そういう場所をようやく抜けて、壁の中に足を踏み入れると、とんでもなく美しいゴルフ場がある。オーガスタという小さな町に見える「光と影」みたいなものが、ある意味では米国の縮図であるようにも思えてくる。マスターズは元来、プロゴルフとはかけ離れたところで、エクスクルーシブな世界。そうであれば、誰もが“のぞきたくなる”のも当然かもしれない。

■ “米国社会の理想”ボビー・ジョーンズとは

―会場のオーガスタナショナルGCはボビー・ジョーンズと設計家のアリスター・マッケンジーがデザイン。4大メジャーの中で唯一、同じコースで開催されてきました。ジョーンズはメジャー通算13勝(当時のメジャーは全米オープン、全英オープン、全米アマ、全英アマ。現行の全米オープン、全英オープンに限ると通算7勝)、1930年には年間グランドスラム(グランドスラムというフレーズもこの時に初めて登場した)を達成。生涯アマチュアとして1971年に死去しました。

三田村 1930年代は大恐慌時代。米国が混とんとしていた時代のボビー・ジョーンズという存在は、アメリカ社会が感じうる理想の人間と言えた。3つの大学を卒業し、弁護士であり、文学にも長けていて、なおかつゴルフまでうまく、紳士であった。特に白人社会において、これほど理想的な人物はなかなかいなかったという評価がある。その彼が引退後に作ったトーナメントとあって、周囲も設立当初から失敗させるわけにはいかなかった。

■ 「ボギー72」から「パー72」に変わった時代

宮本 ゴルフの大会はやっぱり強い人が勝つと、勝つべき人が優勝すると盛り上がる。マスターズは発足当時からチャンピオンにも恵まれていた。
三田村 第1回大会の優勝はホートン・スミス。1935年の第2回で勝ったジーン・サラゼンは現行のグランドスラム達成者だ。彼は「おれのダブルイーグルがなければ、マスターズが早くから話題になることはなかっただろう」という表現をしている。
宮本 当時のダブルイーグル、つまりアルバトロスはあり得ないほど珍しいことだったそうだよ。

三田村 いまはそのホールの規定のスコアを「パー」というが、昔は「ボギー」だった。ボギーは“おばけ”という意味。4に設定されたホールを4で上がることは、おばけに会うことくらい稀なこと、とされていた(諸説あり)。
宮本 だから古いゴルフ場には今も「ボギー72」という表記が残っているところもある。
三田村 東京・新宿御苑にあった皇室のインペリアルゴルフリンクスでは、ずっとボギー表記だった。そんな歴史がある中で、道具の進化がゴルフを大きく変えた。きっかけは1899年に発明、20世紀初頭に普及したハスケルボール。昔の糸巻きボールの原型だ。以前よりも30yd、50ydと距離が出るようになり、するとボギーで上がることが珍しくなくなってきた。パー、バーディ、イーグル…というスコアにつながった。そうは言っても、1930年代のアルバトロスの珍しさは今とは比較にならない。オーガスタナショナルGCの15番(パー5)のグリーン手前にかけられたサラゼン・ブリッジは、この1935年大会のアルバトロスを賞賛したもの。ゴルフと道具の関わりを示す時代背景がある。ちなみに当時は1ラウンドで使えるクラブの本数制限もなかった。1939年に今と同じ14本になった。その時代に強い選手が勝っていたのがマスターズ。大会はより“神格化”していったんだ。

今でこそプラチナチケットとして名高いマスターズの入場券。しかしながら、設立当初はジョーンズが弁護士仲間にお願いして手売りしていた時期もありました。その後、テレビ時代の到来とともにアーノルド・パーマーが人気を爆発的なものにします。次回はマスターズ、オーガスタナショナルGCが培ってきた、伝統を守りながら変革を恐れない姿勢について学びます。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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