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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

ニックネームは「フニャ」 岡本綾子の超感覚/ゴルフ昔ばなし

2018/09/20 11:30


ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載「ゴルフ昔ばなし」は、女子プロのレジェンドを特集中。前回までの樋口久子選手に続き、今回からは同じく世界殿堂入りを果たしている岡本綾子選手にスポットを当てます。日本ツアー通算44勝。そして米ツアーでは日本人選手として最多の17勝、1987年には賞金女王にも輝き、“世界のアヤコ”としてその名をはせました。

―岡本綾子選手は1951年4月2日、広島県の豊田郡(現在の東広島市)安芸津町で生まれました。中学時代にソフトボール部に所属し、愛媛の今治明徳高を経て大和紡績に入社。サウスポーのエース、かつ主軸打者して活躍しました。

三田村 岡本さんがゴルフと出会ったのは、その大和紡績時代にソフトボール選手としてならした時だった。1971年に国体で優勝し、ハワイへ祝勝旅行に行った。当時はまだ知らなかったというゴルフ場のグリーンで寝そべったり、相撲を取ったりしたというエピソードも残っている。その翌年、ソフトボールからは引退して会社に勤務していたが、工場の裏にあったゴルフ練習場に職場を移されたことで、クラブを握るようになったんだ。
宮本 その後に会社を辞め、大阪・池田カンツリー倶楽部で研修生になった。プロテストには1974年、2回目の挑戦で合格した。ソフトボール時代から「米国に行きたい」という思いが強かったというんだ。1975年には「美津濃トーナメント」で初優勝。1978年には早くも米ツアーの予選会を受験していた(当時は失敗)。
三田村 プロ入りしたときはまさに樋口久子さんの全盛期(1968年から1976年まで9年連続で賞金女王、78年から2年連続で再び女王に)。岡本さんはその中で、パワーで圧倒するようなゴルフを見せた。ソフトボールはもちろん、実家の農作業を手伝っていた幼少期に培った下半身の力も原動力になった。
宮本 ただ、ゴルフに関して以外は優柔不断で、付いたニックネームが「フニャ」。はっきりものを言わないところもあって、同僚たちからそう名付けられたんだ。
三田村 当時は女子プロの間で麻雀が流行っていてね。樋口さん、小林法子さんらと一緒に遠征中にやることも多かった。みな結束力があって、女子ゴルフは地方のテレビ局を巻き込んで一気に試合を増やした。AONが活躍した男子に続けとばかりに、優秀な選手が業界を引っ張った。

―1979年には「日本女子プロゴルフ選手権」で大迫たつ子選手との死闘を繰り広げて優勝。1981年に年間8勝をマークして初の賞金女王に輝きました。一方で、米ツアーの予選会を4位で通過しました。翌1982年には「アリゾナ・コパー・クラシック」で初優勝。主戦場を海の向こうに移しました。

三田村 固定相場制からニクソンショックの後の1973年、変動相場制に移行された時代。当時の人々は、日本と米国との距離は急速に縮まったことをより実感するようになった。岡本さんには就職していた時からコツコツ貯めていた資金があって、最初は確か60万円を持って米国に行った。「それがなくなったら、日本に帰ろう」という覚悟を決めていたんだ。米国に行くというので、みんなで六本木で壮行会をやったのを覚えている。会の最後に泣いちゃったのが印象的だったなあ。
宮本 ゴルフ界では樋口さんの1977年「全米女子プロゴルフ選手権」優勝に加えて、1980年の「全米オープン」で青木功さんがジャック・ニクラスとの“バルタスロールの死闘”を演じて、海外志向が高まったんだと思う。

―米ツアーに本格参戦後、1985年には年間3勝をマーク。87年には4勝を挙げ、米女子ツアーで初めて米国人以外の選手として賞金女王のタイトルを手にした選手になりました。

三田村 80年代の中盤に腰痛に苦しんだ。手術を重ねて、岡本さんのスイングはだんだん洗練されて、フェード、ドローと球筋でゲームを組みたてていくようになった。今みたいに、ただ真っすぐ打つ技術だけが求められたわけではなかった。全盛期はその神経もすさまじくて、「アイアンのヘッドに芝1本、2本が噛んだ」のが分かったというから驚きだ。その瞬間に、どちらにボールが飛ぶと分かったらしい。
宮本 もちろん“世界一”になった選手だから、オールラウンダーで穴がなかった。糸巻きボールだった時代に「インパクトから数㎝の間、ボールの残像が見えた」というからね。野球で言えば「ボールが止まって見えた」(川上哲治)という領域に彼女は踏み込んでいたのかもしれない。それほど感覚が研ぎ澄まされていた。岡本さんが本当にうれしかったというのが、米ツアーの賞金女王になった時。1987年、埼玉・武蔵丘GCの日本ツアーを兼ねた「マツダジャパンクラシック」(現在のTOTOジャパンクラシック)を2位(優勝は森口祐子)で終えた後、米ツアーの選手たちにグリーンサイドで肩車をされて、祝福されたことだった。苦しみながら戦った米国で、彼女は本当の意味で受け入れられていたんだね。

宮本カメラマンは青木功選手、中嶋常幸選手らを追って米ツアーで取材活動をした傍ら、岡本選手とも大陸を旅しました。1987年の「全米女子オープン」、1989年の「全米女子プロゴルフ選手権」は岡本選手が限りなくメジャー制覇に近づいた試合です。次回はその裏にあった珠玉のエピソードを明かします。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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