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あの空気感をもう一度、味わうために/フットゴルフな人々 vol.2 阿部敏之

この道はいったいどこにつながっているのだろう? 2023年には米国フロリダ州で「第4回ワールドカップ」が開催され、28年「ロサンゼルス五輪」でのオリンピック種目採用に向けた動きも続いている。世界40ヶ国以上でプレーされ、アメリカではすでに500コース以上で楽しめる新スポーツ「フットゴルフ」。まだ、日本でプレーできるのは20コースほどに限られるが、これはそんな新スポーツに魅了された人々の素顔に迫る連載インタビューである。

第2回に登場するのは元Jリーガーの阿部敏之さん(47歳)。帝京高2年時に全国高校サッカー選手権を制覇して、筑波大から鹿島アントラーズに入団。正確な左足のキックを武器に、日本代表候補にも選出された元プロサッカー選手である。現役引退後、名古屋経済大サッカー部の総監督として後進を育成していた2018年に、選手として再び高みを目指せる競技に出会った。“世界”を知る阿部さんに「フットゴルフ」への思いを聞いた。

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◆ ◆ ◆

―まず、阿部さんにとってご自身のサッカーキャリアはどのようなものでしたか?

振り返ると後悔の方が大きいですね。ある程度、各カテゴリの上の方でやらせてもらったけど、さらに上を目指す努力ができたはずなのに環境に甘えてしまった。その後悔が残っているからこそ、また体を動かすことの中で「本気で取り組めるものはないか?」と求めているのかもしれないです。

―1993年にJリーグが開幕し、その2年後に筑波大からを鹿島アントラーズに入団しました。

僕らの時代はまだ学歴社会で、大卒という肩書きを持ってプロに入った方が、その後ダメになったときにもいいっていう流れがあって、大学進学は必然でした。そんな中で唯一、高校の同級生だった松波(正信)が、ガンバ大阪に入団して1年目から活躍していた。当時の筑波大はそうそうたる選手がたくさんいた(藤田俊哉、服部浩紀、辛島啓珠、木山隆之、大岩剛、望月重良ら)ので試合に出られないのは仕方なかったけど、このままでいいのかなという葛藤はありました。高校時代には声を掛けられていたけど、大学を卒業する頃には分からないという不安もある中、2年時に誘われたのでチャレンジしようと決めました。

―世界最高峰の選手であるジーコもいた鹿島アントラーズは、どんな雰囲気でしたか?

もう、ぜんぜん足りないっていうのが第一印象でした。ポジション的には現役のワールドカップ優勝メンバーであるレオナルド(ナシメント・ジ・アラウージョ)がライバルで、マッチアップすることが多かったけど、どんな角度からボールを奪いに行っても、まったく取れないんです。周囲を一切見ていないのに常に逆を取られるし、それでいてしなやかで精度も高い。彼がブラジル代表で不在のときにチャンスをもらいましたが、そこで彼と同じ結果を残せたかというとやっぱりそんなことはない。2年目は試合出場ゼロで、チームは優勝したんです。それで3年目に「修行に行ってこい!」と、鈴木隆行と一緒にジーコがブラジルに作ったCFZというチームに行きました。そこが、僕のターニングポイントだったと思います。

―ブラジルに行って、何が変わったのでしょうか?

人生観とサッカー観ですね。チームは立ち上がったばかりでしたが、ジーコが代表ということで、特例でリオ州3部からスタートできました。選手たちはみな、フラメンゴやバスコでトップチームに上がれずに、“最後のあがき”みたいな感じで集まっている。練習が午前、午後と二部の場合、僕らは車があるので一度家に帰っていたけど、彼らはバスで来ているし、お金と時間がもったいないから、ずっと午後の練習を待っているんです。ポルトガル語で金持ちを“ヒーコ(rico)”と言うのですが、僕はいつも新しいスパイクを履いているし、「ヒーコ」、「ヒーコ」と言われていました。人生を懸けてサッカーをしている彼らの感覚に比べると、僕らは甘えているなっていうのを感じましたね。

そんな彼らとやるうちに、1試合、1プレーに懸ける思いが変わっていきました。それまでは、なんとなく90分で結果を出せばいいやとプレーしていたのが、攻守において1つ1つ集中してやるようになった。それによって、自然と自信も持てるようになったのだと思います。プレー内容を変えたわけじゃないけれど、半年後に日本に帰ったら結構試合に出してもらえた。“覚悟を持って本気で取り組むことが選手そのものを変えるんだ”と実感しました。

―キャリアを振り返ったときの後悔は、どういう経験からなのでしょう?

その後、鹿島から当時J2に落ちたばかりの浦和レッズに移籍したのですが、行ってすぐはみんなの緩さにびっくりしました。そこで、チームを変えるくらいの意識で継続できれば良かったのですが(※移籍初年度にシーズン7得点を挙げ、1年でJ1復帰)、徐々に染まっていった自分がいた。身体のケアもおろそかになって、辞める前の1、2年はまともにボールを蹴るのもしんどかった。だけど、大きなケガではないので周りには分からないし、「あいつはもうダメになった」という状況の中で落ちていくしかなかった。そうしてしまったのは自分だし、甘かったなと、やっぱり後悔していますね。

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