タイガー・ウッズ財団がリビエラ大会の主催者に 出場にも意欲
2016年 シェルヒューストンオープン
期間:03/31〜04/03 場所:ゴルフクラブ・オブ・ヒューストン(テキサス州)
<選手名鑑194>マット・クーチャー(後編)
■ タイガー・ウッズ3連覇の翌年に全米アマチュア選手権で優勝
マット・クーチャーが頭角を現し始めたのは、ジョージア工科大学時代の97年、全米アマチュア選手権で優勝した時だった。前年の同大会でタイガー・ウッズが大会史上初の3連覇を達成。ウッズはその後プロ転向したため、アマチュアのみの参加となる同大会の出場権はなくなった。
翌年の同大会はイリノイ州シカゴ郊外のコグヒルGCで、当時PGAツアーでも100年近い歴史を誇るウェスタンオープン(現BMW選手権)の舞台でもあった。決勝はジョージ工科大学2年生のマット・クーチャー、ウッズ、スタンフォード大学でチームメイトだったジョー・クライベルとの勝負だった。開催コースや対戦カードなどから「タイガーがいなくなり、次のチャンピオンは誰か」と大きな注目を集めた中で、接戦の末、クーチャーが2&1でクライベルを下し、ウッズの後を継いだ。前編でも触れたが、ウッズとクーチャーには、この頃から不思議な縁があったのかもしれない。
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全米アマの勝者にはマスターズなど、メジャーやビッグイベントへの出場権が与えられる。全米アマは当時から毎年テレビ中継され、PGAツアーの選手たちもクラブハウスで真剣に見入るほどだった。同年のクーチャーはシャープなショットのみならず、プレーする姿が反響を呼んだ。ミスをしてもじっと我慢、それどころか彼は最後まで笑顔を絶やさずプレーしていた。その時、翌年のマスターズで大ブレークするとは、本人も家族も関係者も想像すらしていなかっただろう。
■ 切り札は「スマイル」
全米アマ選手権優勝の資格で、98年マスターズに初出場を果たした。マスターズはボビー・ジョーンズにより1934年に創設された大会。ジョーンズはジョージア工科大学の出身で、クーチャーの大先輩でもあった。彼はジョーンズを敬愛し、マスターズ出場はクーチャーの夢であり、目標でもあった。クーチャーは出場を前にした時の心境を「天にも昇る気持ちだった」と振り返っている。アマチュアで、初出場にも関わらず大健闘を見せ、通算イーブンパーで堂々の21位タイに入賞、ローアマチュア(アマ最高位)に輝いた。この成績はアマとして20年ぶりの快挙で、前年ウッズのマスターズ初優勝に次ぐセンセーションとなった。
クーチャーは最終18番のフェアウェイを、パトロン(ギャラリー)の拍手に応えながら笑顔でグリーンに向かって歩いていた。全米ネットのCBS局は、クーチャーの笑顔をクローズアップで映し続け、この映像がクーチャーが世界デビューを果たした瞬間でもあった。まだ、あどけなさが残る、爽やかで朗らかな笑顔を見たコメンテーターは思わず「ミリオンダラー・スマイル(100万ドルの笑顔)」と表現したことが忘れられない。その2か月後の全米オープンで14位タイの大躍進を遂げ、学生リーグで8勝。同大学の先輩デビッド・デュバルの最多勝利と並ぶ記録を樹立するなど、一躍スーパーヒーローとなった。
クーチャーは穏やかでいつも笑顔のためか、笑いジワができている。プロになってからは、いろいろな笑顔を見せるようになった。微笑もあれば、ビッグスマイルも、時にはキラースマイルも…。とことん勝負に食らいつく彼が、本気になった時の不敵な笑みに油断しているとコテンパンにやられてしまう。
■ 圧力釜気質を笑顔に変えるまで
クーチャーは1978年6月21日、ウクライナ系米国人が多いフロリダ州ウィンターパークに生まれた。クーチャー家もウクライナ系で、テニスプレーヤーだった両親は、揃って州代表クラスの腕前を持っていた。特に父ピーターは、ステンソン大学ではナンバー1の選手で、卒業してからも保険業を営む傍ら、アマチュアの試合に参加を続けていた。両親は子供にテニスを強く勧めることはなく、いろいろなスポーツを経験することを望み、マナーや楽しみ方に問題がある時は、優しく諭し、成長を見守った。母メグはゴルフも大好きで、ゴルフ場のメンバーになったのを契機に、当時12歳だったクーチャーもゴルフを始めた。彼はテニスの上達同様、ゴルフの上達も早かった。
今のクーチャーからはまったく想像できないが、少年時代はショートテンパー(短気でカンシャク持ち)、いやプレッシャークッカー(圧力釜)と言ってもいいほどの性格だった。高校時代に試合で負けた時、悔しさのあまりクラブを池に放り投げたことがあった。それを見た父親は、諭すのではなく「池に潜って取ってこい!」と激怒。彼は自分の怒りの感情を池の水で冷やそうと、言いつけに従いクラブを探すために飛び込んだ。この経験で2度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓うとともに、以降は別人のごとく、心に渦巻く感情を笑顔に変え、冷静にプレーした。この出来事がなかったら、今はなかったという。
■ 大学卒業→兼業選手(信託銀行勤務)→プロ転向
多くの大学生ゴルファーは、プロゴルファーを目指し励んでいる。チャンスがあれば大学を中退し、プロに転向。または卒業後すぐにプロになり、ツアー入りを狙うケースがほとんどだ。だがクーチャーは、2000年5月に大学を卒業した後、すぐにプロにはならなかった。その理由は、敬愛するボビー・ジョーンズが、生涯アマチュアゴルファーを貫いたからだった。当時トップスターだった彼には、スポンサー契約の話がいくつもあり「10ミリオン(約12億円)を棒に振った」と言われた。「大学と違って、社会人として働きながら競技ゴルフをすることはどういうことなのか?それを体験したかった」というのが後に語った理由だった。
卒業後は大学のあるジョージア州から郷里フロリダ州に戻り、地元ボカラトンにあるリバティーアソシエイツ信託銀行に就職。銀行の窓口業務をしながら練習を重ね、試合にも挑戦した。その年10月のテキサスオープンにアマチュアで出場。しかし、あっけなく予選落ちし、働きながらプロたちと渡り合う二足のワラジの難しさを実感した。そのあとすぐにプロ転向を表明し、プロゴルファー生活をスタートさせたのだ。
01年初めは出場権が無かったために、スポンサー推薦を受けて出場した。6試合目のエアカナダ選手権の3位が効き、テンポラリーメンバーに。その後テキサスオープンで2位になり、賞金ランク91位相当の額を獲得。125位以内に与えられる賞金シードをあっさり獲得し、02年から本格参戦を果たした。クーチャーは母校への誇りと愛着でスクールカラーの黄色いヘッドカバーを使用している。
来週にはいよいよマスターズが開幕、彼が最も勝ちたい試合だ。昨年は46位タイだったが、2012年は3位タイ、2013年は8位タイ、2014年は5位タイと、3年連続でトップ10に入ったこともある。10度目の挑戦となる節目となる今年、悲願の優勝なら、最終日18番で見せるであろう笑顔はミリオン、いやビリオンダラーに値するだろう。
- 佐渡充高(さどみつたか)
- ゴルフジャーナリスト。1957年生まれ。上智大学卒。大学時代はゴルフ部に所属しキャプテンを務める。3、4年生の時に太平洋クラブマスターズで当時4年連続賞金王に輝いたトム・ワトソンのキャディーを務める。東京中日スポーツ新聞社を経て85年に渡米、ニューヨークを拠点に世界のゴルフを取材。米国ゴルフ記者協会会員、ゴルフマガジン「世界トップ100コース」選考委員会国際評議委員。元世界ゴルフ殿堂選考委員。91年からNHK米ゴルフツアー放送ゴルフ解説者。現在は日本を拠点に世界のゴルフを取材、講演などに飛び回る。