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後世に残したいゴルフ記録

歴史に埋もれた暗夜の5人プレーオフ/残したいゴルフ記録

国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介。今回は、過去に2例ある男子ゴルフ最多の5人プレーオフのうち、ツアー史に残らなかった1961年「日本オープン」を振り返ります。

ツアー史に残らなかった最初の5人プレーオフ

ゴルフの面白さはプレーオフにあり。いまも記憶に新しいのは、先の「東京五輪」男子ゴルフで銅メダルを7人で争ったプレーオフだ。松山英樹が敗れて4位に終わったことは日本ゴルフ界にとっても残念だったが、ゴルフの面白さや一打の重さ、勝負の厳しさを世界に発信できたことで、残したものは苦い思いばかりではなかったと感じている。100年に及ぶ日本のプロゴルフ史においても、7人もの選手によるプレーオフは男女を通じて初めてのことだった。

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日本の男子ゴルフにおけるプレーオフの最多人数は5人で過去に2例あるが、ツアー記録としては2019年「ANAオープン」のみとなっている。1回目が行われたのはツアー施行前のため、公式記録として扱われていないためだ。

それは、1961年11月に千葉・鷹之台CCで行われた「日本オープン」だった。下関GCのトッププロで当時24歳の細石憲二が、小野光一、勝俣功、陳清波、謝永郁を破って優勝した。プレーオフはコースに近い1、7、8番の3ホールの合計で争うストロークプレーで行われたが、時はすでに午後5時。5人一組の真剣勝負には無理があった。スタート直後には日没となり、自動車のライトでコースを照らし、懐中電灯でカップの位置を示すハメに。のちに“暗闇プレーオフ”と呼ばれる歴史的な出来事となった。

勝負が決まったのは最終8番。細石がバンカーから30cmにつけるパーで決着をつけた。当時のプレーオフは18ホールのストローク戦が一般的で、いまのようなサドンデスになったのは1970年代に入ってから。“成せばなる”の頑張りが命、そんな時代だった。

2回目の2019年「ANAオープン」は、現在と同じ北海道・札幌GC輪厚コースで9月に開催された。通算16アンダーで首位に並んだ浅地洋佑時松隆光嘉数光倫ショーン・ノリス(南アフリカ)、スンス・ハン(米国)の5人がサドンデスのプレーオフを行い、当時26歳の浅地が1ホール目(18番)の第2打を8番アイアンで1.2mにつけるバーディで優勝した。

ところで昨今、頻繁に行われるようになった「サドンデスプレーオフ」は、直訳すれば“突然死”。紳士淑女のスポーツとされながら、この響きのギャップは何だろう? といぶかしんだものだ。せっかちな世の中は18ホールどころか3ホールのストロークプレーも許してもらえず、いまや「突然死」による決着を待つしかない。いまのゴルフは、結果だけを求めて温かみがないと思うのは筆者だけだろうか。(武藤一彦)

武藤一彦(むとう・かずひこ)
1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。

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