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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

200年前のクラブがずらり JGAゴルフミュージアムを訪ねて/ゴルフ昔ばなし

2019/08/28 11:07

2019年の男女海外メジャーが終わり、その締めくくりは渋野日向子による「AIG全英女子オープン」優勝という快挙となりました。変わって国内男女ツアーの賞金ランキング争いが本格化する季節。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載は、日本のゴルフの起源に目を向けます。日本初のゴルフ場である兵庫・神戸ゴルフ倶楽部編に続き、廣野ゴルフ倶楽部にある「JGAゴルフミュージアム」を令和元年に訪ねました。

ゴルフの起源は謎に包まれている

―日本有数の名門コースとして知られている廣野ゴルフ倶楽部の場内には、日本ゴルフ協会(JGA)が管轄する博物館があります。1982年に開場した「JGAゴルフミュージアム」には日本だけでなく、世界的にも貴重な展示品が約2000点、2階建ての館内にぎっしりと詰まっています。初回はまず館内にずらりと並ぶ古いゴルフクラブを見ていきます。

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三田村 ゴルフ発祥の起源というのは実ははっきりしていない。15世紀にスコットランドですでに「ゴルフを禁止する法律」があったという文献から、当地をルーツとする説のほか、オランダや中国で始まったという話もある。ただし、棒で球を打つ遊びはそもそもさらに昔からあって、ホッケーなどにも通じた。日本では打毬(だきゅう=馬に乗って杖で毬を転がす遊び。欧州のポロに通じるもの)が奈良時代から行われたともいうからね。
宮本 このミュージアムは世界的に見ても、貴重なものがかなりある。古いクラブでは1820年以降にマッセルバラやセントアンドリュースなどスコットランドのコースで使われたものもある。「ロングスプーン」、「ドライビングウッド」など独特の名前が残っている。アンティーククラブがいくつもここには保存されているんだ。

三田村 昔は今ほどルールが多くなく、道具に関しても規制が少なかった。だから、フェースに穴を開けてバンカーや池から出しやすくするウェッジもあった。ネジでロフトを変えられるアイアンはもう使えないかな。
宮本 いまでこそ“カチャカチャ”のドライバーやフェアウェイウッドが主流になりましたけどね。サンドウェッジの形も当時は様々だし、より自由な発想を感じることができる。

リアル“プロゴルファー猿”の世界

―ミュージアムの1階、右手の部屋には古い“クラブ工房のレプリカ”があります。こちらは1926年の第1回「日本プロ選手権」で優勝、1932年「全英オープン」で日本人史上初のメジャー出場、さらには「日本オープン」で最多の6勝をマークした宮本留吉が、ゴルフクラブをつくったところを移設したものだとか。

宮本 19世紀に「全英オープン」を親子で4勝ずつしたトム・モリス・シニア、トム・モリス・ジュニアの時代もトップゴルファーたちは自分たちで工房を持って、クラブをチューンアップして試合に出た。だから古い選手たちの名前が残るクラブやメーカーはいまでもある。
三田村 宮本留吉は少年時代、近所にあった神戸ゴルフ倶楽部でキャディとしてゴルフに触れ、大阪・茨木カンツリー倶楽部を経てトッププロの道を歩んだ。「宮本ゴルフ製作所」は東京・三鷹市に移ってから作ったゴルフ工房。クラブづくりはもともと、まさに家内工業だった。ハンドメードの商品を販売していたんだ。当時はトーナメントが少なかった。他に稼ぎようがないこともあって、ゴルフ用品を売っていた。輸入物しかなかったものを、日本の選手も見よう見まねで、パーシモンの木を削って試合で使うものを手作りした。

ボビー・ジョーンズに勝った男の幻のマスターズ出場

三田村 いまの若い人はビックリするけれど、AON世代の選手にも自分たちで工房を持つ選手も多かった。尾崎将司のところでは今でも自分たちの施設でシャフトを替えたり、クラブをいじったりすることができる。青木功もグリップ交換を自分でしてきた。ちょうど中嶋常幸が活躍し始めた時代に専門のクラフトマン、プロをサポートする“ツアーレップ”が出てきたかな。
宮本 宮本留吉は戦前の1931年に浅見緑蔵、安田幸吉とともに米国に渡って転戦に挑戦した。当時の移動はもちろん船。ふたりが帰国した後も宮本は米国に残って、1932年にはエキシビションマッチでパインハーストを舞台に“球聖”ジョーンズらと戦った。ダブルスのマッチで勝ち、賭けていた5ドル紙幣にサインを入れてもらった。

三田村 だから日本では「ボビー・ジョーンズに勝った男」としても知られたんだ。創成期の日本のプロゴルファーたちは、海外挑戦の意欲をすごく持っていて遠征にも出向いた。日本でのエキシビションに来た海外のゴルファーに、逆に米国滞在中は面倒を見てもらったりしたこともあったそうだ。
宮本 何日もかけて船で太平洋を渡り、車で西海岸から東海岸へ…。さらに大西洋を渡って「全英オープン」にも行ったんだから。
三田村 日本人で初めて「マスターズ」に出場したのは1936年、陳清水と戸田藤一郎が招待された。実はその前年に宮本、浅見、中村兼吉が招待されていたんだ。マスターズを作った(1934年に第1回)のはボビー・ジョーンズだから宮本が呼ばれるのは自然な流れかもしれないね。しかし当時は別の試合のために渡米することを決めていた。船での予定はそう簡単に変えることはできないから辞退した。“幻のマスターズ出場”になったという。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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