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三田村昌鳳が語る日本女子オープンゴルフ選手権競技(1)

女子オープン8勝の樋口久子はOL志望だった

いまだに忘れられないコメントがある。
それは樋口久子が、1972年の日本女子オープンに敗れたときの話だ。

当時の樋口は、圧倒的な強さだった。1968年に2つの公式戦がはじまって、いずれも樋口がすべて優勝していた。日本女子プロに5連勝し、この年の日本女子オープンに勝てば、5連勝。つまり10連勝するという強さだった。

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ところが、浜松シーサイドでの日本女子オープンで佐々木マサ子に敗れたのである。その女王の座を佐々木マサ子に開け渡したとき「正直、ホッとした」と漏らしたコメントだった。勝敗が決まったときは、悔しさと安堵が入り交じっていた不思議な表情だったことを思い出す。

日本の女子プロ界の歴史は、男子とは比較にならないほど浅い。第1回の日本女子プロ選手権が開催されたのが、1968年の7月。そして、日本女子オープン選手権は、同じ年の12月である。

当時は女子の試合は、その2試合しかなかった。
日本女子オープンは、もともとTBS女子オープンとしてスタートした。その時、師匠の中村寅吉プロから、「第1回の大会は、歴史に名前がちゃんと残るんだから、しっかりやってこい」と言われたという。

「当時は、まだ女子プロゴルファーという職業自体あまり世間に認知されていなかった時代で、1967年に日本プロゴルフ協会女子部だったんですよ。試合がほとんどなくて、確か、第1回のTBS女子オープンは、初めて2ラウンドの試合でした。覚えていますよ(笑)。中村先生に、2日間の試合は、どういう風に戦えばいいんですかって聞いたら、ともかく1日、1日、一生懸命やればいいんだ(笑)って、これだけがアドバイスでしたから・・・」。樋口にとってゴルフとの出会いは、予想外のことだった。彼女は二階堂高校時代、陸上部の選手で種目はハードルだった。

「その当時は、大学へ進学する生徒は少なかったんですね。1クラス50人以上で、その中でも10人とか15人とかでした。ほとんどは銀行やデパートに就職するような状況でしたから、私もどこか就職しようかな、というぐらいに考えていたんです」と樋口久子は話し始めた。裁縫が好きで、1日でスカートを縫いあげるような少女だったのだという。だから服飾関係の仕事が、本来の樋口の進路だったのかもしれない。

「たまたま姉が砧(世田谷・砧ゴルフ場)に勤めていて、中村寅吉先生をよく知っていたんです」その姉の「ゴルフでもやってプロを目指したら?」という一言に「そうね。やってみようかしら」と気軽に返事をしたことが、彼女の人生を変えたのである。

三田村昌鳳(みたむら・しょうほう)
1949年、神奈川県逗子市生まれ。『週刊アサヒゴルフ』副編集長を経てフリーのジャーナリストに。95年、米国でスポーツライター・ホールオブフェイムを受賞後、翌年には第1回ジョニウォーカー・ゴルフジャーナリスト・アウォード最優秀記事賞に選ばれる。翻訳・監修に『タイガー・ウッズ-伝説の序章』、著書に『伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち』など。また、日蓮宗の僧侶として自坊(神奈川県・逗子市の法勝寺)の副住職も兼ねる。

関連リンク

2011年 日本女子オープンゴルフ選手権競技



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