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ペインシュチュアート追憶コラム・コメント

ペイン・スチュアート追悼特集:ペインを10年追いつづけたアメリカ人ゴルフライターが語る Remembering the Payne ペインスチュアートの思い出を…

42歳という年齢が遅すぎたのか、早過ぎたのか…。1999年ペイン・スチュワートは自らの人生とキャリアを蘇らせた。やんちゃな風貌で、周囲からは好かれていなかった人間が神への信を確認し、徐々に人間的な成長を遂げていった。そして、6月にノースキャロライナ州パインハーストで行われた全米オープン。ペインは4.5メートルのロングパットを最終ホールで沈め、フィル・ミケルソンを1打差競り落とし優勝。42歳、ペイン・スチュアート。遅過ぎたのか、早過ぎたのか…それはペインにしかわからないだろう。

これは彼にとって3つ目のメジャータイトルだった(1989年に全米プロ選手権を優勝し、その2年後、全米オープンを制覇)。優勝を決定するパットとしては、全米オープン史上最も長いもので、ペインは誰もが夢見るトロフィーを手中にした。優勝が決定した瞬間の豪快なガッツポーズは、ゴルフ歴史にも残る名場面となった。

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ペインはその前年の全米オープンで2位に終わっていた。今年で105回目を迎える全米オープンで、前年2位から翌年優勝した者はペイン以外に2人しかいない。ボビー・ジョーンズとジャック・ニクラス。勝負根性は一級だった。

更にその1年前の1997年には、最終日を2位以下に4打差をつけて迎えた。しかし、そのリードを守りきれず、18番ホールでは4.5メートルの難しいパットを外しリー・ジャンセンとのプレーオフを1打差で逃した。

その背景があっての1999年の劇的な勝利。誰もがそのような幸運に巡りあえるわけではないし、誰もがそれらチャンスをものにできるわけでもない。結果論から言えば、ペインは恵まれていたのだろう。幸運が降りてきた4ヶ月後、運命の悪戯が我々からペインの命を奪った。彼は自家用機の墜落事故でこの世を去った。早過ぎる死だった。しかし、ペインがこの世を去る間際に払拭した自らのイメージ、人生の転換、そしてその堂々たる生き様は、我々に強烈な伝説を残してくれた。

コース内でもコース外でも、彼は安らぎを手に入れた。それは明らかだった。彼のプレーや周囲への振る舞いを見ていても。彼は成長し、幸せになれた。彼を見ている我々も同じだった。一昔前までとは大違い。全米オープンを初めて制した1991年、彼は生意気そうに見えた。周囲の関係者、メディアに対し、どこか突っ張っているようなところがあった。

18ホールのプレーオフの際にペインが倒したのは1987年の同大会覇者でファンの間でも人気者だったスコット・シンプソン。ペインはシンプソンを真似てメディアとの関係を修復するかのように、インタビューテントで愛想を振る舞った。しかし、明らかに逆効果だった。

その後1990年代半ば、スランプに直面していたペインに同情する者は少なかった。多くが彼の事を「ガキ」扱いし、腹立たしい奴だと思っていた。でも、彼は変わった。いや、変わる努力をした。人間的に成長した。彼の努力する姿勢に皆は尊敬できた。そのため、1999年にパインハーストで優勝した際、周囲は歓喜に溢れ、ペインは一躍ヒーローになった。進化した彼をもっと良く知りたい、好きになりたい…そう思い始めた矢先に、彼はこの世を後にした。

今月、全米オープンはパインハーストで再び開催される。クラブハウスに一番近い木には、優勝を決めた後のガッツポーズの像が飾られている。彼の右拳は今自らがいる天へかかげられ、喜び一杯の表情を浮かべている。まさに何かデカイ仕事を成し遂げた男の表情だ。あの伝説を思い出させてくれる肖像だ。

ペインの評判はその勝利の直後に更に上がった。ウィニングパットを沈めた直後、ペインは敗者のミケルソンをつかまえた。妻がいつ出産してもおかしくない状況下でプレーしていたミケルソンを激励し、訴えた。「良い父親になれ!」生まれ変わったペインの人生観では、明らかに変わっていた。優勝はたかが優勝、長い人生の一こまでしかなかった。翌日、ミケルソンは第1子の父親となった。ペインのこの行動は本心からの願いだったからこそ、ゴルフファンのみならずあのシーンを目撃した者は感動した。

10年前の彼を知っている者にとって、1999年のペインはまるで別人のようだった。まるで輪廻転生のように。彼はプロとして絶頂にいる時も謙虚である事を学んだ。絶頂期であるからこそ、謙虚さを追求した。その少し昔は不可能に思えた言動と行動を、彼は10年後自然に振る舞えるようになっていた。「神への信仰が今まで以上に強いこと、心の中に安らぎを見つけた事を私は誇りに思っている」と、彼は言った。

ペインのクラシックで緩やかなスイング、トレードマークのニッカーボッカーパンツは皆の記憶に残っているだろう。でなければ、彼の優雅な人間性だろう。彼の外見が外見だっただけに、あの時代からのゴルファーの中では最も印象に残る選手だろう。そして、彼の死に方が死に方だっただけに、多くのファンの心中にいつまでも生き続けるだろう。

個人的には、ペインが亡くなった翌年6月にペブルビーチ(カリフォルニア州)で行われた全米オープンでの追悼セレモニーが最も印象的だった。ペインは勝ち取ったタイトルを防衛する事はできなかったが、彼の魂はそこにあった。それを皆で祝ったのだ。大会初日の前日、朝日と共に50名程の出場選手が集結した。同数もしくはそれ以上のメディアのメンバーも出席していただろう(僕らメディアは朝日と共に起きるなんて、ゴルフがただでプレーできる時くらいだろう…)。その会合は、プロゴルファーであろうが、メディアの一員であろうが、肩書きは関係なかった。集まったプロたちはペインのために太平洋に目掛けてボールを打ち込み、ギャラリーもその姿を静かに見守った。そして、皆が涙を流した。ペインに相応しい儀式だった。僕はこの儀式に参加できた事を今でも誇りに思っている。

どのスポーツの一流選手と比べても、ペインの勝負に対する執念は強かった。ガムを噛みながら冷徹な眼差しで辺りを見渡す。それは、彼の戦いが始まったことを意味した。自分のイメージとの葛藤、神への忠誠心、そして1999年の制覇…その長い旅の中に転換があった。それが我々が持っている最後のペインの思い出になっている。「俺が成し遂げたかったのは、自分にチャンスを与えること。それだけだ」と、1999年全米オープン優勝後、涙目のペインは語った。「僕はあきらめなかった」

碑銘としては十分なのではないだろうか。彼の死を受けて米国ゴルフ協会の会長、バズ・テイラーは簡潔にこう言った。「ペイン・スチュワートはゴルファーの在るべき姿を象徴していた」。プロゴルファーではない。アマチュアゴルファーでもない。ゴルファー全員だ。今年全米オープンがパインハーストに戻ってくる。そして、広大な青空の下、あの日のあのパット、あのガッツポーズ、あの人生、あの生き様、ペイン・スチュアートが甦ることだろう。

著者プロフィール(Mike Kern)
1979年、ペンシルバニア州フィラデルフィアの日刊紙「フィラデルフィア・デイリー・ニュース」社に入社。1990年以来、ゴルフ担当記者として米国ツアーの第1線で取材活動を続ける。地元大学チームの担当でもある。2003-04年「インターナショナル・ネットワーク・オブ・ゴルフ」の競技部門最優秀ライター、2004年ペンシルバニア州最優秀スポーツライターにも選出された。

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