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後世に残したいゴルフ記録

劇的なイーグル決着を振り返る/残したいゴルフ記録

2022/01/31 17:35

国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。今回は、73年のツアー外競技で起きた劇的イーグル決着を振り返ります。

これぞゴルフの醍醐味

米国ツアー「ソニーオープンinハワイ」に出場した松山英樹が、ゴルフの面白さをたっぷりと見せてくれた。ハワイ・ワイアラエCCでの最終日に、最終18番パー5で繰り広げられたラッセル・ヘンリーとの攻防。松山は土壇場でバーディを奪って首位に並び、プレーオフ1ホール目にイーグルを決めて大逆転を果たした。

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同じワイアラエCCで、1983年に開催された米国ツアー「ハワイアンオープン」最終日。最終組をプレーする青木功が、首位に1打差で迎えた最終18番の第3打。117m(当時の表示/約128yd)をウェッジでカップに放り込むイーグルで、日本人最初の米ツアー優勝を飾った。米国ツアーの同一大会で、2人の日本人チャンピオン誕生は初めてのこと。日本にとってハワイはやっぱり夢の国。本当に楽しませてもらった。

そして、劇的なイーグル優勝は日本のプロゴルフ競技にもあった。1973年の春に開催された「総武国際オープン」(千葉・総武CC総武コース)。最終18番のパー4でのイーグル決着である。

同大会は当時、賞金ランキングの加算対象でありながらツアーに含まれていなかったが、そうそうたる顔ぶれのプロが多数参戦していた(1974年に昇格)。優勝争いの主役は、35歳の内田繁と25歳の尾崎将司。最終日に尾崎が2アンダー「70」で回り通算9アンダーで終えると、最終組の内田は最終18番のボギーで「74」とし、2人が首位に並んでホールアウト。それまでの流れからすると、尾崎が断然有利と思える展開だった。

18番で行われたプレーオフの3ホール目に、奇跡は起こった。内田が5番アイアンで放った第2打は高い弾道を描くと、ピン手前5mにグリーンオンしてそのまま転がり、なんとカップにコトンと消えた。一瞬の静寂。そして「入った!」「入った!」の声。きょとんとしていた内田が、そのあと阿波踊りを舞うかのように全身で喜びを表現した。起死回生のイーグル優勝だった。

「パー3でホールインワンは何回かやっているけど、パー4の2打目は初めて」と内田。「160yd、170y? 距離なんかわからない。無心で打った」と、内田の興奮はいつまでも冷めなかった。

内田は静岡・川奈出身。1937年8月生まれで、杉原輝雄と同い年。20歳でプロ入りし、愛知・春日井CCを拠点として66年「中日クラウンズ」で初優勝。69年に「関西オープン」を制し、71年は「東海クラシック」など3勝を挙げた。賞金ランキングの最高位は3位。中京ゴルフ界の中心選手だった。

「総武国際オープン」は、前身が日本最古のスポンサー競技である「読売プロゴルフ選手権」。1973年大会はアジアンサーキットの最終戦でもあり、国際色豊かな大会として知られた。ヤーデージは全長7200ydのタフな設定。内田のパー4でのイーグル決着は、日本ゴルフ競技史上に残る快挙であった。(武藤一彦)

武藤一彦(むとう・かずひこ)
1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。

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