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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

ジャンボ尾崎はイップスだった 伝説の日本オープン/ゴルフ昔ばなし

2018/02/07 07:44

取材協力/Restaurant CHIANTI

20世紀のプロゴルフシーンを振り返る「ゴルフ昔ばなし」。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載は3回目も尾崎将司選手に迫ります。

30代前半に始まったスランプは約5年間続き、完全復活を印象づけたのが1988年、東京ゴルフ倶楽部で行われた「日本オープン」でした。青木功中嶋常幸と優勝争いを演じ、ホールアウト後にAONが並んだ表彰式は伝説の名場面。ライバルたちとのナショナルオープンでの激闘を経て、ジャンボは再び上昇気流に乗りました。

宮本 「日本オープン」はAONの3人で合わせて11勝(青木2勝、尾崎5勝、中嶋4勝)。特に青木さんが六甲国際ゴルフ倶楽部で勝った1983年から10年は3人で9勝した。当時の争いは本当にケンカみたいだったよ。
三田村 あの頃は、選手の闘争心みたいなものが一番感じられた時代だったと思うね。ジャンボが1988年に勝つ前、スランプの間は青木と中嶋の争いが熾烈だった。
宮本 トミー(中嶋)は1985年、アマチュア時代に苦い記憶のある東名古屋カントリークラブでの大会で優勝してから2連覇。86年の戸塚カントリー倶楽部では、青木、尾崎を2位に従えた。87年の有馬ロイヤルゴルフクラブでは、青木さんが日本オープン2勝目を挙げたけれど、最終日に先に2位でホールアウトしていたトミーはグリーンの上から様子を見ていたんだ。5mのウィニングパットを残していた青木さんに「決められるものなら決めてみろ」っていう視線でね。青木さんはそのパットを決めて勝った。「テメー、この野郎!」みたいな目でトミーを見返したんだ。ジャンボさんは徐々にスランプから抜け出して、86年に4勝、87年には3勝したけれど、本当の意味での復活は青木、中嶋が最高の状態だったこの時にジャパンオープンを勝つことだった。“AとNの間”にもう一度、割って入ることこそがカムバックだったんだ。

東京ゴルフ倶楽部で行われた1988年大会。最終日のAONの争いは、中嶋常幸が16番でダブルボギーをたたき、3人が首位で並びました。17番で10m以上のバーディパットを沈め、一歩リードしたのが尾崎。続く最終18番、70cmのパーパットを残します。しかし、“入れて当然”の場面で構えに入った尾崎は、アドレスをほどいて仕切り直します。しかも、2度…。緊張感に打ち勝ち、3度目のアドレスでショートパットを沈めて安堵の表情を浮かべました。直後のテレビインタビューでは「手が動かなかった」と話しています。

1988年の日本オープン表彰式。AONが並んだ ※画像資料提供・日本ゴルフ協会

宮本 青木&中嶋のふたりは「ジャンボは外す」と思っていたんじゃないだろうか。ジャンボさんは17番ですごいバーディを獲った。けれど、あのふたりこそが、あの短いパットにどれだけプレッシャーがかかることか知っていたから。

三田村 青木と中嶋は、日本オープンという舞台の、あの場面で仕切り直すことの意味をよく分かっている。尾崎はあの時、パットのイップスにかかっていた。ショットのスイングについては突破口を見つけていて、最後に残された課題がパターだった。彼は新聞や雑誌で「ジャンボは今季OBを何十発と打った」と書かれたことを原因に大スランプに陥ったほどデリケートな性格の持ち主だ。短いパットを打つ前、外した時のことばかりが、頭の中を走馬灯のように駆け巡る。だからあの時、18番グリーンで尾崎はバックスイングで手が震えるのが分かった。「オレが尾崎だ。オレが尾崎だ」と言い聞かせて打ったそうだ。尾崎に言わせると、「あれは出口であって、また入り口だった」。あれでやっとスタートラインに立ったけれど、それからはまたパターで別の悩みが出てきたらしいけどね。

宮本 一流の選手であるジャンボさんでも、手が震えるほどの、我々の想像を超えるようなプレッシャーがかかっていた。様々な経験から、自分でその重圧を背負った。でも、そういうすごい試合展開を制したからこそ、その後また10年近く、日本のトップに君臨し続けるきっかけになった。
三田村 ジャンボが1回目にアドレスをほどいた時、お客さんは笑っていた。でも、その2回目にほどいた時には、水を打ったように静かになった。ちょっと異様な雰囲気だった。ジャンボのその姿を見た青木は「シビれなきゃウソだよ。あいつもヒトの子だったということだよ」ってポロッと言ったんだ。
宮本 ゴルフのキャリアは長い。若いうちに勝った選手は、そのうち家族ができて、子どもの前でも勝ちたいと思う。1986年の「マスターズ」で、ジャック・ニクラスは自分の子どもをキャディにして勝った。そういう気持ちはプロゴルファーでなくとも、なんとなく男として分かる気がする。昨年、谷原秀人が38歳で10年ぶりに、子どもが生まれてから初めて「マスターズ」に行った。ジャンボにとっても、活躍する姿を家族にもう一度見せたい気持ちはスランプを脱するのに大きかったんじゃないかな。

キャリアで100勝以上(ツアー94勝)をマークしている尾崎選手は、プロ野球出身という運動神経や並外れた体力はもとより、努力家であり、“習志野のエジソン”と呼ばれるほどのアイデアマンでもありました。次回はコースでは知りえない舞台裏の素顔と、その人柄から生まれるエピソードを明かします。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
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