石ころから特許技術へ ゴルフを変えたボールの物語/ゴルフ昔ばなしゴルフ昔ばなし
昭和天皇もゴルファーだった ゴルフを“輸入”した商人たち/ゴルフ昔ばなし
2019/09/19 07:29
ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載「ゴルフ昔ばなし」は令和元年、兵庫県の廣野ゴルフ倶楽部にあるJGAゴルフミュージアムを訪ねました。明治時代に伝来した現在のゴルフは、欧州と米国の文化と交わりながら発展してきました。今回は館内の展示品を眺めながら、その創成期について理解を深めます。
“I played golfing in the morning.”
―日本でゴルフが広まったのは20世紀初めの明治時代。英国商人アーサー・グルームの力によって1901年、当時4ホールで始まった神戸ゴルフ倶楽部が日本初のゴルフ場でした。ここから日本にも多くのアマチュアゴルファーが誕生し、その後プロゴルファーも出現しました。
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三田村 日本人で最初のアマチュアゴルファーとして名前が挙がるのが、水谷叔彦(みずたに・としひこ)さん、新井領一郎(あらい・りょういちろう)さんのふたりだろう。水谷さんは海軍機関学校を卒業して、イギリスの海軍大学に留学した。1896年(明治29年)も友人に勧められてゴルフをしたという記述がある。1月1日付けの日記に“I played golfing in the morning.”と。神戸ゴルフ倶楽部ができるよりも前のことだね。新井さんは生糸の貿易商で63年間も米国に住んでいた。ゴルフを覚えて、一時帰国するたびに日本でも友人を誘ったという。
宮本 復習になるけれど、米国で最初にできたゴルフ場は1888年、ニューヨークのセントアンドリュースGC。スコットランド移民がリンゴ園に造ったコースからはじまった。
三田村 新井さんはシルクの貿易に懸命に励みながら、白人社会で信用を得たが、激務により体を壊してしまった。そんなとき、米国にはバケーション文化があることを知る。療養のためにノースカロライナ州のパインハーストに行ってゴルフを覚えた。それが1902年前後のこと。元気になってニューヨークに戻ると、「こんなにおもしろいものがあるんだ!」と周りに勧めたそうだ。日本銀行のニューヨーク支店に勤務していた井上準之助(いのうえ・じゅんのすけ)さんは、新井さんの教えを受けてゴルフに夢中になり、帰国後に東京ゴルフ倶楽部の創始者のひとりになった。
宮本 これが初めて日本人の手でつくられたゴルフクラブ。現在の東京ゴルフ倶楽部は埼玉県狭山市にあるけれど、設立された1913年(大正2年)当時は東京の駒沢にあった(1932年に埼玉県朝霞に移転、第二次世界大戦中に陸軍に買収され、戦後に現在の狭山で復活した)。
ヘッドカバーを考えたのは日本人だった!
―20世紀初頭にゴルフに触れた日本人は英国、そして米国の文化を持ち帰り、スポーツとして、あるいは重要なコミュニケーションツールのひとつとして発展させてきました。それは安倍晋三首相やドナルド・トランプ米大統領のような現在の国家元首だけではありませんでした。
三田村 昭和天皇は皇太子だった大正時代、英国に留学していた。1921年(大正10年)5月、ロンドン近郊のザ・アディントンゴルフクラブでは、殿下の前でエキシビジョンマッチを行ったんだ。「全英オープン」のチャンピオンまで呼んでね。ゴルフに触れた皇太子は翌1922年、今度は駒沢の東京ゴルフ倶楽部でプリンス・オブ・ウェールズ(のちのイングランド国王=エドワード8世)と親善ゴルフもした。
宮本 このミュージアムには“菊の御紋”が入った展示品がたくさんありますね。
三田村 かつては新宿御苑のなかに皇室専用のゴルフコース、インペリアル・ゴルフリンクスもあったんだ。当時はまだホールの規定スコアが「パー」ではなくて、「ボギー」とされていた時代だった(スコアカードには9ホール計2322yd/ボギー35とある)。
三田村 皇族がゴルフに触れられるきっかけづくりをしたのが、やはり英国でゴルフを学んだ、日本ゴルフ協会(JGA)第2代会長だった大谷光明(おおたに・こうみょう)さん。ゴルフのルールを研究した「日本ゴルフの父」とも言われ、川奈ホテルゴルフコース 大島コース、名古屋ゴルフ倶楽部和合コース、現在の東京ゴルフ倶楽部を設計した。
三田村 また、日商(現在の双日)や日本火災海上保険(損害保険ジャパン日本興亜)の元会長・高畑誠一(たかはた・せいいち)さんも、大正時代に鈴木商店のロンドン支店で貿易商としてゴルフを学び、彼も皇太子の前でのエキシビジョンマッチを取り持った。ちなみに彼もルールブックを作ったほかに、クラブにつけるヘッドカバーを考案した人としても知られている。ゴルフクラブを傷つけたくない、という日本人らしい思いから最初は使い古しの靴下をかぶせていたが、のちに毛糸で手作りしたものをつけると、周りから好評だったそうだ。
宮本 高畑さんはのちに、このミュージアムがある廣野ゴルフ倶楽部の創設、“アリソン・バンカー”で知られる英国人チャールズ・ヒュー・アリソン氏がデザインしたコース監修にも携わった(1932年開場)。創成期は東京を中心にした関東のゴルフ場がより皇族と結びついた一方で、関西ではいっそう商人の文化が根付いたという違いがあるかもしれないね。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」