米国東部ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外にあるオークモントCCは、ヘンリー・フォーンズの設計で1903年に開場した。1940年代にはコースを南北に走る高速道路ペニンシュラ・ターンパイクが建設され、教会の椅子の形をしたフェアウェイバンカー「チャーチ・ピューズ」とともに広く知られている。ことしで116回目の開催となる全米オープンの歴史で、当地を会場とするのは9年ぶり9回目(2010年には全米女子オープンが開催され、ポーラ・クリーマーが優勝)。ジャック・ニクラスがアーノルド・パーマーを破った1962年大会を含めた過去8回のオークモントでの戦いを振り返る。
アンヘル・カブレラ2007年大会
タイガー・ウッズとジム・フューリックを1打差で破ったのは当時37歳のアンヘル・カブレラだった。予選ラウンドを単独首位で通過し、3日目に7位に後退したものの、最終ラウンドで「69」をマーク。16番からの2連続ボギーもなんのその。4打差をひっくり返して通算2アンダーで逆転勝利をおさめた。南アメリカ出身のプレーヤーとしては初の全米オープン制覇だった。ウッズは4月の「マスターズ」に続く惜敗の2位。日本勢は片山晋呉が36位で終了。今大会に出場する谷口徹は予選落ちした。
アーニー・エルス1994年大会
当時24歳のアーニー・エルスがコリン・モンゴメリー、ローレン・ロバーツとのプレーオフを制しメジャー初優勝を遂げた。単独首位からスタートした最終ラウンドで「73」を叩いて2人に並ばれたエルスは、翌日の18ホールのプレーオフを「74」でプレー。モンゴメリーが脱落したあと、ロバーツとのサドンデスにより2ホール目で勝負を決めた。日本から出場した尾崎将司は28位。飯合肇、倉本昌弘は予選落ちした。なお、当時は9番ホールがパー5(2007年、16年はパー4)で、パー71で行われた。
ラリー・ネルソン1983年大会
第3ラウンド、最終ラウンドの36ホールで大会最少ストロークとなる「132」をマークしたラリー・ネルソンが、トム・ワトソンの大会連覇を阻んだ。最終日の16番(パー3)で見せた約20mのバーディパットがハイライトとして語り継がれている。日本勢は中嶋常幸が26位タイで終えた。アラバマ州生まれのネルソンはベトナム戦争から帰還したあと、ロッキード社で飛行機の製図技師を務めた異色の経歴を持つ。ゴルフを始めたのは21歳とおそく、同大会を含めメジャー3勝をマークした。
ジョニー・ミラー1973年大会
全米オープン、そしてメジャーの18ホール最少ストロークが生まれたのがこの年。当時26歳だったジョニー・ミラーが最終日に「63」を叩き出して優勝を飾った。3日目を終えてトップにいた選手とは6打差でスタート。前夜に落ちた雨によりボールが止まりやすくなったグリーンを果敢に攻めきって、見事な逆転劇の主役となった。NBCで長くテレビ解説も務めたミラーは当時、トム・ワトソン、トム・カイトら一時代を築いた若手選手たち“ヤングライオンズ”のひとりとして人気を博した。
ジャック・ニクラス1962年大会
オークモントで行われた全米オープンの中でもっとも象徴的な戦い。当時プロ1年生、22歳のジャック・ニクラスが、既にスーパースターだったアーノルド・パーマーを下した。鳴り物入りでプロの世界に飛び込んだ二クラスは、ペンシルベニアを地元にするパーマー、そして彼を応援する熱烈なファン“アーニーズ・アーミー”を相手にプレーオフに持ち込み、翌日の18ホールの延長戦を制した。二クラスのメジャー通算18勝のはじまりは、まさにこの試合。ふたりの激突は1万人のギャラリーの前で行われたという。
- 1962年の全米オープン。ニクラス(左)はプレーオフでパーマーを破り、メジャー初優勝を飾った(Bettmann/Getty Images)
ベン・ホーガン1953年大会
全米オープンがはじめてテレビ放送されたのが1954年。その前年の戦いは伝説的選手同士の争いだった。最終日、ベン・ホーガンは13番で20mのバーディパットを沈めて勢いづき、サム・スニードを破った。全米オープン通算4勝のホーガンにとって、同大会最後の優勝。この年には「マスターズ」と「全英オープン」も制し、トリプルクラウンの偉業を達成した。美しいスイングと自動車事故からの復活を遂げた不屈の精神を持ち合わせたホーガンは、のちに83年大会を制したラリー・ネルソンにハイボールの打ち方を伝授したという。
サム・パークスJr1935年大会
オークモント近郊にあるサウスヒルズCCのアシスタントプロだったサム・パークスJr。コースへの知識がものを言い、ジミー・トンプソンを2打差で破って優勝した。多くの選手が高速グリーンに苦しみ、優勝スコアは通算15オーバー。彼にとってこれが唯一のメジャー勝利で、その後「ライダーカップ」の米国選抜入りを果たす。その後は地元の大学のゴルフ部設立などに寄与し、1997年に87歳で死去した。
トミー・アーマー1927年大会
現行のストロークプレーに変更されたのが1926年。当時は初日、2日目の予選ラウンドでそれぞれ18ホールをプレーし、3日目に36ホールの決勝ラウンドを行っていた。スコットランド出身のトミー・アーマーは、最終ラウンドの最終ホールでバーディを決め、ハリー・カッパーとの翌日プレーオフに突入。再びの18ホールの戦いを終え3打差で勝負を決めた。なお、3つの異なるメジャータイトルを持つ欧州出身の選手はアーマーのほかジム・バーンズ(イングランド)とロリー・マキロイ(北アイルランド)しかいない。