光明が差した時(2) /ペイン・スチュワート
By Tom Alter, PGATOUR.COM
ヒックスがスチュアートと組み始めた最初の一ヶ月は、試用期間のようなものだった。早くから結果を残せたことは大きな励みになったのだ。
「僕たちが組んでから、4週連続でトップ10入りを果たしたんだ」とヒックス。ちょうどその頃からコープ博士とも関わりはじめ、すぐに結果が出始めた。
「そこから彼は勝ち始めたんだ」。
1989年の「RBCヘリテージ」に向かうスチュアートには勢いがあった。彼はシーズン初めの9試合で3度トップ5入りを果たしていたのだ。しかしハーバータウンではもう5年もプレーをしていない。過去に2度そこでプレーをした時は、1983年大会で予選落ち、その翌年大会で48位タイという結果だった。合計6ラウンドプレーしたうち、イーブンパー以下を出せたのはたったの一度だけだ。
しかし、あのピート・ダイの革新的設計が施されたコースでの1989年大会で、全てがうまくいき始めたのだ。
スチュアートは初日を「65」でラウンドし、ケニー・ペリーとトップに並んだ。翌日金曜日は両選手ともに「67」で終え、3位に2打差をつけ週末を迎えた。土曜は同組で回ったが、雨による遅延でその日は11ホールしか消化できなかった。残りの7ホールを日曜にプレーし、スチュアートは「67」、ペリーは「70」とした。
そこでやっと3打差をつけたスチュアート、3位のマーク・マッカンバーとは5打差をつけており、彼が本当に必要としていた「勝利」を勝ち取る準備が整った。
ここではプレー経験のあるスチュアートだが、結果は良くなかった。1985年の「バイロン・ネルソン」でのこと、3打差のトップで迎えた最終ホール、彼はダブルボギーを叩き、対するボブ・イーストウッドがバーディとし試合はプレーオフへ。スチュアートは最初のプレーオフホールでもダブルボギーを叩き、肩を落として歩き去った。
残り18ホールというところで、彼は背中に痛みを感じ始めた。土曜日の遅れが日曜に延期されたせいだ。しかし、彼はなんとしてでもやりきらなければならなかったのだ。
コープ博士の話に戻るが、彼はスチュアートのパフォーマンスが向上したのは偶然ではないと考えていた。
「あの時、彼は初めてきちんと計画を立てて取り組んだんだ。感覚だけでプレーをするのではなくてね」とコープ博士。「彼はボールを打つ前の『ルーティーン』が良くなったよ。そしてしっかりとした中間目標をおくようになったし、そこから全体の計画を立てられるようになったね。単純なことに聞こえるかもしれないけれど、彼にとっては非常に複雑な事なんだ」と続けた。
「こういう『計画』は彼にとって首の回りに付けられた縄の様なものだから、すごく嫌っていたね。しかしあの大会中は、それに自ら取り組んでいたし、『計画と感覚』といった感じで上手く飲み込んでいたよ」。
さらにヒックスは続けた。「あの大会で彼には欠点がなかった。しっかりと打てていたし、パットも決めた。そして大会記録の16アンダーを叩き出したんだ」。
スチュアートは最終日を「69」でラウンドし、4日連続で60台をキープした。そして2位に5打差をつけて優勝。これは大会記録となったのだ。この勝利はまぐれではないし、弱い相手と戦っていたわけでもない。ペリーの他にスチュアートの下についた選手達は、後に世界ゴルフ殿堂入りを果たしたフレッド・カプルス、ベルンハルト・ランガーそしてラニー・ワドキンスだった。
「ヘリテージでの勝利で、全て吹き飛ばされた感じだったよ」とジェイコブソン。「シーパインズで優勝したことで、さらに選手として引き立ったね。あれは難しいコースだけどそれもきちんと計算されていたからね」。
「もう彼は『エイビス』ではなくなったんだ」。
あれはツアー4度目の勝利だったが、他とはどこか違う。彼が違うように見えたのだ。
「あの勝利があったから、自信の面において彼はトップに立っていたよ」とヒックス。
スチュアートは「メモリアル・アンド・ブイックオープン」で上位につき、その後の8月「全米プロゴルフ選手権」で、初日は「74」でラウンドしたものの、残り3日間全てを60台でラウンドし取り返した。最終6ホール中4つバーディを奪いトップに立っていたマイク・レイドを追い詰めて捕えたのだ。
レイドは苦い思いとともに家へと帰り、スチュアートはメジャー初勝利を飾った。
「彼は最終日のバックナインを『31』でラウンドしあの位置に昇りつめたんだ。もちろん、レイドが前半取り乱したこともあったけれど、スチュアートはどんどんスコアを上げていった。そういうのはよくある事だよね。マイクのようにメジャー初勝利を狙っている時に、下位の誰かがどんどんスコアを上げてきたら、やりにくくなるよね」とヒックス。
スチュアートは彼のキャリア初となる、シーズン2勝を挙げた。彼は賞金ランキングで2位、その額は100万ドルを越えた。1989年はツアー最少平均スコアの「バイロンネルソン賞」を受賞した。
そして、彼の勢いは止まらなかった。
彼は1990年にハーバータウンで、大会史上初となる大会連覇を果たした。この年の「RBCヘリテージ」に出場していた選手たちは、歴史に名前を残した者ばかりだった。彼は偉業を達成したのだ。大会が開催されてからの23年間、優勝を果たした選手達は、既にメジャーチャンピオンに輝いている選手、またはこの大会でメジャーから引退しようという選手達ばかりであった。
1990年「RBCヘリテージ」での勝利は彼にとって非常に重要である。なぜなら、彼が初めてプレーオフを制したからだ。それはスティーブ・ジョーンズとラリー・マイズとのサドンデスだった。2週間後の「バイロン・ネルソン・クラシック」は雨で試合が短縮されたものの、ダラスに居るサザン・メソジスト大学の友人達の目前で勝利を挙げた。5年前に取り付かれた悪霊を取り払ったのだ。彼は1990年シーズンの賞金ランキングで3位についた。
しかし翌シーズン、首の神経に問題を抱えたスチュアートは少し後退した。冬から春にかけてのツアーを10週連続で欠場し、その中には「マスターズ」も含まれていた。
さらに、健康面に問題を抱えているスチュアートの精神状態をコープ博士は心配していた。
「彼においてはよく目を凝らして見てあげなければならないんだ」とコープ博士。「彼はたくさんの感情を隠しているんだ。自信過剰になってしまうか、十分に自信が持てずにいるか、このどちらかだから、うまくバランスを取らなければならない。陰と陽が出たり入ったりしている状態なんだ。だから上がり下がりが著しいんだよ」。
「ちょうど真ん中を見つける、というのは彼にとって非常に難しいことだからね。これは彼も口に出して言っていたけれど」と続けた。
スチュアートは1991年のハーバータウンで復帰しようと決めていた。ピート・ダイがデザインした、選手達にとって非常に難しいコース。ティショットを左右に外すとそこにはドッグレッグがある。切れのあるアイアンショットはグリーンの適切な場所に収まるが、もしグリーンを捉えられなければ、厄介な位置から脱出しなければならない。
こういったユニークな挑戦を得意としていたスチュアートは「RBCヘリテージ」で4位タイに入り、自信を取り戻し、復活を果たした。「全米オープン」を数週間後に控えていた。
スチュアートは試合における正確性と同じくらいに、彼自身の服装にもこだわりを持っていた。彼のフェアウェイとグリーンを捉える正確性と狙いの鋭さは「全米オープン」でも脅威になった。ヘーゼルティンの荒々しいコンディションの中、スチュアートは前年度の「全米オープン」チャンピオンであるスコット・シンプソンと18ホールのプレーオフを戦った。
降ったんだよね」とヒックス。「けれど風が吹けばコースは乾く。そして迎えた月曜のプレーオフ、コースの状態は最悪で、彼らも酷いプレーをしていたよ」と続けた。
シンプソンは16ホール終えた時点で2打差のトップに立っていたが、スチュアートが2打差で勝利を挙げた(75と77)。「全米プロ」チャンピオンが、「全米オープン」チャンピオンに輝いた。
米国ツアー最初の217試合でスチュアートは3勝のみだった。しかし1989年の「RBCヘリテージ」から1991年「全米オープン」までの54試合で5勝を挙げ、その中で2度メジャーチャンピオンに輝いた。
スチュアートは変わった。ただの「良い選手」から「素晴らしい選手」へと変貌したのだ。
「2度目のメジャー優勝の後、彼は自分の事を誇っていましたよ」とコープ博士。「それは当然のことだね」。
空には果てが無いように見える――しかしゴルフや人生は必ずしもそうではない。スチュアートは賞金王争いの真っ只中でゴルフ用具を変え、またも停滞期に入ってしまった。
「もし、用具会社を5年間替えなかったら・・・彼がどうなっていたかは言うまでもない」とヒックス。
スチュアートはその後、1勝しか挙げられなかった(1995年のシェル・ヒューストンオープン)。ゴルフ用具の契約が1998年の終わりで切れ、翌年は基本に戻した。
ヒックスは回顧する。「1999年、エドウィン・マットへ行って、僕が欲しかったゴルフバッグを選んだ。その時はどこの会社ともボールやクラブの契約はなかったから、ペインは自分自身で好きな用具を選べた。それから『ペブル』で優勝し、ヒルトンヘッドではプレーオフで敗れちゃったけど、彼らしいプレーを取り戻したんだ」。
その2ヶ月後、パインハーストNo.2にてスチュアートは16番から18番ホールでクラッチショットを連発。フィル・ミケルソン、タイガー・ウッズ、ビジェイ・シンを寄せ付けなかった。プレッシャーを感じる中、かつて「勝てない男」だった彼は3度目のメジャー優勝を果たしたのだ。
1999年シーズンを終え、スチュアートは11のツアータイトルと、3つのメジャー優勝を手にしたのだ。グレッグ・ノーマン、デービス・ラブ3世に続く、米国ツアー賞金ランキング3位に着いた。さらに彼はアジア、アフリカ、ヨーロッパでもプロとして勝利を挙げた。
さらに「ライダーカップ」のアメリカチームメンバーとして出場した。ブルックラインで行われた大会ではアメリカチームが感動と興奮の勝利を手にした。試合の決着が着いたあと、スチュアートはコリン・モンゴメリーとの試合で敗北を認め、スポーツマンシップの意思表示であるとされた。
1ヶ月後の10月25日、フロリダ・オーランドから小型ジェット機に乗り込んだ。彼はサザン・メソジスト大学のアマチュア選手達のためにホームコースを建てようという議論をすべく、ダラスへと向かったのだ。そこからヒューストンへ出て、シーズン最後となる『ツアー選手権by Coca Cola』に出場する予定だった。もし人生に山と谷があるとしたら、この時のスチュアートは山の頂上にいたが、満足はしていなかった。さらに目指すものはあると考えていたのだ。
「人々は彼がどれだけ素晴らしい選手かを忘れかけていたよ」とコープ博士。「彼が飛行機に乗り込む前の夜に話をしたんだ。翌年のスタートについてね。彼は目標をベストだった時よりさらに上に置いていたから、戦う準備は出来ていたんだろうね」と続けた。
しかし、彼の乗り込んだ飛行機が着陸することはなかった。キャビンは圧力を失い、2名の操縦士と4名の乗客の命を奪った。当時スチュアートは42才だった。
1年後、サザン・カンパニーが米国ツアーに働きかけ、ペイン・スチュアート賞が作られた。毎年、人間性の素晴らしさ、チャリティ活動、スポンサーシップを最も実証した選手に送られる。受賞者は試合に対するリスペクトやツアー伝統のチャリティ活動、そして自分自身と他の人々に対して、積極的な変化をもたらした功績を称えられる。
これまでに16名の選手がペイン・スチュアート賞を受賞している。そのうちの7名が殿堂入りしており、5名の選手が「RBCヘリテージ」で優勝を経験しているのは偶然ではない。スチュアート、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラス、トム・ワトソンそしてニック・プライスはそのどちらも手にした選手たちだ。
この賞はスチュアートと彼の思い出を称える。パインハーストの銅像も同じである。スチュアートは良い選手であったが、素晴らしい選手へと変化を遂げ、3度もメジャーチャンピオンを勝ち取ったのだ。
彼が、変化を遂げたきっかけになったのはどこだったか忘れてはならない。今週開催される「RBCヘリテージ」を見ながら、25年前にカラフルな服装で、敵を追い払い、殿堂入りを果たした彼のキャリアがここから始まったことを思い出して欲しい。