2012年 マスターズ

【WORLD】26人が語る“オーガスタの思い出”

2012/03/29 15:53

■ マイク・リード

マスターズでは2度ほど予選落ちして、コースが自分に合っていないと思いはじめていた。距離が長すぎ、グリーンが速すぎるのだ。1989年の大会直前のある晩、私はESPNでライターのジェイミー・ディアスのインタビューを見た。彼は、選手たちは300ヤードを飛ばしドローボールが必要で、パットもうまくなければならないと思ってマスターズにやってくるのだと言っていたよ。だけどそれはウソだ。その言葉は私にとって光明だった。われわれが借りていた家のキッチンの床はリノリウムになっていて、私は毎番コインを置いてパッティングをしていた。そして、私はオーガスタナショナルのグリーンがキッチンの床より速いはずがないと言い聞かせていたよ。これで自信をつけ、その年のマスターズでは5ホールを残して首位に立ったんだ。優勝はできなったが、それに近づくことはできた。今でもその思い出はしっかり刻まれているよ。

■ ロッコ・メディエート

初めてのマスターズは1991年だった。賞金ランキング首位でトーナメントに臨んだんだ。どういうわけか、練習ラウンドでアーノルド・パーマーと一緒にプレーする幸運もあり、最初のホールでゴルフをするうえでこれ以上楽しいことがあるだろうかと考えた。2番ホールでOKが当然の2フィートのパーパットを強く打ちすぎて外した。そうしたらアーノルドに叱られたんだ。顔を近づけてこう言われたよ。「ここのグリーンはそんなことをしたら、君を破滅させるぞ!」。それまではすごく優しかったし、その後もとても良くしてくれたが、その一瞬だけとても真剣だった。マスターズはとても楽しいものだが、同時にピクニックなどでないことは確かだ。

コーリー・ペイビン

たいていの練習ラウンドは、4人が2人ずつペアになって進められている。1980年代のある年、私はアーノルド・パーマージャック・ニクラスレイモンド・フロイドと一緒だった。たった9ホールだったが、1人が5ドルのスキンズゲームをやろうと言い出した。最初はリラックスしたムードで始まったが、何ホールか経っても、誰も取れず、やがてみんなが真剣になっていった。観衆の笑顔とウェーブの下にも真剣さが隠されていた。9番で、私はベタピンにつけた。9ホールのスキンズがかかっていて、誰も同じラインのプレーヤーはいなかった。そして、私はそれを外してしまったのだ。そして、1番のティーグランドのようなリラックスしたムードが戻ってきた。もしあのパットを入れていたら、3人のレジェンドたち相手に9つのスキンズを奪うというすばらしい結果となったのに。

ニック・ワトニー

2009年、私はジャック・ニクラスアーノルド・パーマーと同じ日に握手をした。パッティンググリーンの近くでチッピングをしていたら、ミスターニクラスがパー3コンテストに行くために通りかかり、立ち止まってくれたのだ。そして10分後にミスターパーマーがやってきた。どちらにもそれ以前に紹介されてはいたが、2人と握手をするのはとても身震いしたよ。何しろ2人合わせてマスターズ10勝だからね。2010年のマスターズ最終日に65を出したけど、明らかにそれよりもミスターパーマーとミスターニクラスと同じ日に握手をしたことのほうが特別なことだ。

■ ロニー・ブラック

最初のマスターズは1984年だった。私はアマチュア時代に無名だった若いプロだった。だからマスターズでプレーすることはすごい出来事だったんだ。試合では良いプレーをすることができ、上がり3ホールで2つのバーディを取り、6位タイになった。日曜日、私はドライバーでフェアウェイバンカーに入れた。1988年にサンディ・ライルがそこからすばらしいショットを打ってバーディを奪い、優勝したのと同じところだ。ピンは手前で、私はグリーン奥に打った。だが、それを沈めギャラリーは大盛り上がりだったね。スタンディングオベーションされたよ。私はちょっと恥ずかしい気持ちになって、ボールを慌ててカップから拾い上げると、すぐにそこを立ち去ったんだ。もっとゆっくり時間を使い、あの拍手を存分に味わえばよかったのにと、いつも思う。なぜなら、あのようなスタンディングオベーションを受けることなどないからね。

ザック・ジョンソン

マスターズチャンピオンは、マスターズ前の日曜日にゲストを1人呼ぶことができるんだけど、僕は昨年、父を招待したんだ。そしてファジー・セラーとその友だちと一緒にプレーしたよ。父はものすごく緊張していて、良いプレーがしたいと心から思っていたんだ。父はハンディキャップ10くらい。何も言わずにプレーしていたけど、いくつで回るか心の中で目標を立てていたのではないかと思う。彼は1番ホールをパーとするなど良いプレーをし、ファジーは楽しませてくれた。そしてラウンド後はクラブハウスで一緒にランチを食べたよ。父がすばらしい1日を送るのを見るのは、忘れることなどできない感動的なことだよ。

マット・クーチャー

僕の最初のマスターズは1998年、アマチュアとしてだった。当時、僕はボビー・ジョーンズも通ったジョージア工科大の2年生ということで、関係性もあったね。その時は、父がバッグを担いでくれた。初日、18番に行ったとき、振り返ると僕たちはすばらしい瞬間を味わった。すべての子どもはオーガスタの18番に来ることを夢見ているものだけど、まさにそんな感じだった。涙はなかったが、特別なことをしていることはわかったよ。その瞬間を捉えた写真は今でも大切にしている。

1987年に劇的なチップインで優勝を果たしたラリー・マイズ。しかし、彼の最高の思い出は、この年のことではないという(Getty Images)

ラリー・マイズ

私はオーガスタ出身で、そのことはいつも自分に役立っている。1987年、グレッグ・ノーマンセベ・バレステロスとのプレーオフに勝ったときにも、グレッグよりも私をたくさんの人々が応援してくれていたと思う。あまりそんなことはないのだが。しかし、私の思い出は1987年ではないんだ。一番は1994年にマスターズ2勝のホセ・マリア・オラサバルが1度目の優勝をしたときのことだ。私は3位だったね。最終日、優勝のチャンスがなくなり、私は静かに18番ティーに上がった。そのとき、ギャラリーの誰かがこう叫んだんだ。「ありがとう、ラリー!」。とても誠実な叫びだった。私の琴線に触れたよ。

ビリー・キャスパー : パート1

クリフォード・ロバーツは私の友だちだった。ある年の感謝祭の週末、われわれは彼をサンディエゴでディナーに招いた。クリフォードには子どもがおらず、その午後はわれわれの家族の雰囲気が彼を包んでいた。1970年、私が友人のジーン・リトラーにプレーオフの末、マスターズで勝ったとき、クリフォードは私が18番グリーンに来るのを待っていてくれた。クリフォードはいつも、優勝者に温かい祝福をしてくれるのだ。涙目の彼は私を見てこう言ったよ。「ビリー、ありがとう」。彼は、私がトーナメントの名声を高める価値あるチャンピオンだと言ったんだ。これは多くの意味があることで、みんなに伝えたいことだ。

ビリー・キャスパー : パート2

1957年以来、私はマスターズに出つづけていた。だから、数えきれないほどのすばらしい経験を積んだ。だが、最後の年はさらに特別だった。私はベランダの大きな木の下に座り、みんなと話していた。そして、少しの間、私は1人きりになった。曇った日で、私は空を見上げた。その瞬間、白い雲が1つ、ゆっくりとクラブハウスを包んだ。たった1つだ。私は思った。雲の中にみんないるんだな、と。ジョーンズの魂、サラゼン、ホーガン…。みんながそこにいた。いつの日か私もあの雲の中に行くと思うと、幸せな気持ちになったよ。

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