大学ゴルフ界から新星続々 “学士プロ”のルーツをたどる
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。今回は、ツアー施行から程なくして勢力を強めた“学士プロ”の台頭を振り返ります。
学士プロのパイオニア
東北福祉大出身の松山英樹や金谷拓実ら、大学ゴルフ界を経てプロ入りした、いわゆる学士プロの活躍が目覚ましい。日本でプロゴルフ競技が始まった戦前の1920年代にも慶応大出身の村上伝二や古賀春之輔らがいたが、ツアー競技で最初に学士プロの存在感をアピールしたのは、東洋大出身の新井規矩雄(きくお)だ。
1943年12月生まれ。実家は埼玉・飯能市で山林業を営んでいた。東洋大ゴルフ部ではエースとして活躍。飯能市役所への就職が決まっていたが、1963年春に1回だけという約束で受けたプロテストに一発合格してプロ入りした。その後はじっくりと力をつけ、ツアー制度がスタートした73年に賞金ランキング15位で初シード入り。以降は88年まで16年にわたって連続シード権を獲得した。この間、82年から3年連続で賞金ランク4位に入る活躍を見せ、AONに次ぐ日本ツアーの顔となった。
1973年の初シードでは、学士プロがもう一人。日大出身の西田升平(しょうへい)が賞金ランク26位とし、新井とともにシード入りを決めた。ベルリン五輪の陸上・棒高跳びの銀メダリスト、西田修平さんの次男。日立製作所の社員だった修平さんが赴任中のブラジルでゴルフを覚え、帰国後に日大を経てプロテストに合格した。さらに翌年の74年には、西田と日大同期の沼沢聖一、75年には「日本アマ」優勝の山田健一、高橋信雄(いずれも日大)がシード入り。81年には同じく日大の倉本昌弘と湯原信光、羽川豊(専修大)の“3羽ガラス”が台頭し、以来、学士プロは日本ゴルフ界のトレンドとなった。
若手の学士プロが台頭する中でも、最古参の新井はトーナメントに欠かせない存在だった。そのタフさと、トレードマークの黒ぶちメガネからついたあだ名は「スーパーマン」。出場できる試合は全てこなすスタイルで、1985年には米ツアー7試合、国内39試合の計47試合に出場した。これは、日米英を股にかけて戦った日本人選手の年間最多出場として、今も残る記録である。(武藤一彦)