ジャック・ニクラス インタビュー オークモントよもやま話(中)
米国Golf Digest誌6月号 2016 全米オープン特集
◆「アーノルドとラスベガスで・・・」
これまでも常に言ってきたことだが、私はアーニーの応援団と戦わなくてはならないことがあったとしても、アーノルドと戦わなければならないことは一度もなかった。ともにIMGを代表してどこかへ行かなければならなかった時は、どこへでも二人一緒に飛行機で行ったものだよ。我々はお互いの妻を加え、フライトの最中に幾度となくブリッジをやったものさ。何時間も話をし、人生を分かち合い、たくさん笑い合った。私が素晴らしい1962年シーズンを送った後、私とアーノルドは1963年の1月にラスベガスの「トーナメント・オブ・チャンピオンズ」で一緒にプレーしたのだ。アーノルドは、「ジャック、君は賭けのやり方を学ばないといけない」と言った。それで、アーノルドは私に個別指導をしてくれ、おまけに3000ドル負けてくれたんだ。1963年では、それはそれは大金だった。賭けで何をすべきでないのかちゃんと学ぶことができた、とアーノルドをからかったものだよ。
◆「ネットもテレビもない時代だった」
タイガー・ウッズより若い選手にとって、60年代初頭のゴルフが2番手的なスポーツだったと言うのは簡単かもしれないが、特にメジャーでは大勢の観客が押し寄せた。「マスターズ」、「全英オープン」、そしていくつかのツアーの大会では、動員数は今に近い数字だった。おしなべて、と言うわけではなく、時として、ということだがね。当時、メディアの規模は小さく、インターネットはないし、テレビ中継の数も少なかったが、新聞の報道は綿密だった。大会によっては、ツアーがやってくると、それはその街一番のビッグイベントだったのだよ。
◆「私はスロープレーヤーだった」
私がスロープレーヤーだったという事実にギャラリーがじれったく思ったことはあるかもしれない。それは私も認める。私がオークモントでスローだったのは確かなことだ。私にとっては、順番が回ってこない限り、ショットの準備を始めるのは難しかった。実のところ、他の選手が打つ準備をしている最中に歩き回らないのは、思いやりだと思っていた。ただ、私は遅すぎたし、速くプレーする術がなかったのだ。同じ年、その後、ポートランドで、私はとうとうスロープレーで罰則を受けたのだが、そのとき私は少しばかり憤慨したんだ。と言うのも、一緒にプレーしていたビリー・キャスパーもブルース・クランプトンもそんなにプレーが速かったわけではないからね。ただ、PGAツアーの大会スーパーバイザーだったジョー・ブラックは良く対処してくれたよ。彼は「ジャック、私はたった今、君に罰則を科したが、それは君を助けようとしたからなんだ」と言った。「自分の順番になった時には準備を整えておけなければならないんだ」とね。私はそこから多くを学んだよ。私は自分のキャリアのなかで(スロープレーで)罰則を受けたことはもう一度だけあったが、結局は、プレーイングパートナーに敬意を払いつつ、自分の次のショットの準備に入る術を学んだことで、速いプレーヤーとなったのだ。
◆「私がネガティブな記事を読まなかった理由」
私は外部のことで悩まされないようにしていた。オークモントから何年も経過したグレッグ・ノーマンの全盛期のことだが、当時の彼の妻であるローラがバーバラに、彼女の夫に対するネガティブな記事についてこぼしたことがあった。「グレッグに見せたら、彼はカンカンになって怒ったのよ」と彼女は言ったのだが、それについてバーバラは「なんで彼に見せちゃったの? 私はジャックについて不親切なことが書いてある記事を見つけると、できる限り新聞を彼の目の届かないところに置いているわ」と言ったんだ。ローラはそれを聞き入れ、その後は彼らも少し暮らし易くなったようだったね。メディアの書くことはコントロールできないが、バーバラは私の視界の遮断については良くやってくれたね。