ジャック・ニクラス インタビュー オークモントよもやま話(中)
米国Golf Digest誌6月号 2016 全米オープン特集
1962年、オークモントCCで行われた「全米オープン」は、ゴルフ界の帝王ジャック・ニクラスの数々の偉業のルーツともいえる大会でした。プロ転向して直後に臨んだ試合で、地元ペンシルベニア州出身のアーノルド・パーマーをプレーオフの末に破って初優勝。歴代最多メジャー通算18勝の最初の勝利でした。あれから40年あまり。ニクラスがオークモント、パーマーと全米オープン、そして家族とのエピソードなどをインタビューで披露しました。
◆「米国にはアーノルドに不向きな名門コースがある」
アーノルド・パーマー本人ですら、当時の彼は真っ直ぐにドライバーを飛ばす選手ではなかったと言うと思う。信じられないような話だけど、彼のドライバーの黄金期はまだ後にやってくるんだ。しかし、彼は目を見張るリカバリーの名手だった。例えば、ウィンゲッドフット、オークヒル、そしてオリンピックなど、多くの「全米オープン」開催コースはアーノルドに不向きのコース設定だった。特にウィンゲッドフットは、木々を刈り取らないんだ。単にその数が多いだけではなく、密集して生い茂り、枝はほとんど地面につきそうだった。それにラフが合わさるとリカバリーは不可能となる。これは私よりもアーノルドにとって不利となった。彼のドライバーのミスショットからのリカバリーは、優雅で、アスレチックで、スリリングだった。しかし、それを取り上げてしまうコースもあったのだよ。私だって木は好きさ。木々にもちゃんと居場所はある。それに美しい。私も木々がホールを形作り、戦略的な目的を果たしてくれるのは気に入っている。しかし、リカバリーの余地は残されるべきなのだ。
◆「私は木など気にならなかった」
木々が加えられたり、伐採されたりして加えられたオークモントの景観に関する多くの劇的な変化は、私はプレー中には、そうしたことに気がつかなかったということの良い例と言えるね。私はプレーに作用しない限り、木々は気に留めない。ブラインドが閉まるのさ。フェアウェイとグリーンしか見ないのだよ。当時はグリーンも速かった。スティンプメーターで計測すると8、9フィートと言ったところだったかもしれないが(今年の「全米オープン」は14フィートになる見通し)、今よりも遅いグリーンに慣れていた当時は速く感じたものだ。下りのパットは特に油断ならなかった。グリーンは古いベント芝の芝目とポアナ芝の芝目が入り組んでいて、こうした芝目で下りのパットを打つと、全く違う方向へ行ってしまうこともあった。とは言え、速いグリーンは大好きだったよ。オークモントでは初めの3ラウンドで3パットは1度もしなかった。最終日の1番ホールで1度だけ3パットしたが、それ以降は2度と3パットはしなかった。私はアーノルドが何度も3パットしたのを覚えているが、それは彼らしくないことだったね。当時、アーノルドは何でも決めてしまいそうな感じだったから。
◆「アーニーのファンからの野次はなかった“かもしれない”」
オークモントはペンシルベニア西部にある。アーノルドはその辺りの出身だから、明らかにギャラリーは彼の肩を持っていた。私は常に、ファンの私に対する野次は一度も聞いたことがないと言ってきた。バルタスロール(1967年の「全米オープン」)では、アーニーの応援団が書いたあまり良くない言葉を見たがね。ただ、オークモントではそうした標示はなかったし、野次もなかった。どのみち観衆に惑わされるということは、それまで、高校でバスケットボールをプレーしたいた時ですらなかった。信じてほしいのだが、オハイオにはうるさいファンが多いのだ。オークモントでは、まだ私は単にゴルフをプレーしようとしていた22歳のガキだった。ゴルフのプレーのみに意識を集中していた。私の知る限り、ギャラリーは私に声援を送ってくれていたよ。どちらにせよ、私はすべてを遮断していたがね。