国内男子ツアー

マネーランクなき時代の賞金王 ジャンボは1800万円で初戴冠/残したいゴルフ記録

2020/03/04 16:00
ツアー開始後は大きな関心が寄せられるようになった賞金タイトルだが…

国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。

賞金ランクが存在しなかった時代の“賞金王”たち

ツアー制がスタートする以前、公式の賞金ランキングがなかった時代。当時は、まさにマスコミ先行だった。欧米ツアーにならって賞金ランクを算出しようと、国内と海外の枠にとらわれず、報道関係者が詰めるプレスルームから独自の賞金ランクや、平均ストロークなどが連日発信された。

別表は、当時の取材記録や資料を元に、ツアー立ち上げ前の1963年から72年までの獲得賞金トップをまとめたものだ。66年までの賞金額は不明。1967年以降は、日本プロゴルフ協会(PGA)が協会50年史に参考記録として掲載したものを引用した。

獲得賞金1位の選手 ※1963年~

プロゴルフ界に吹いた追い風 試合数&賞金総額が急増

この10年間は、プロゴルフ界に追い風が吹き続けた。1957年に日本ゴルフ界で初の国際大会「カナダカップ」が霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催され、中村寅吉と小野光一の日本チームが優勝。個人戦も中村が制し、ゴルフブームが起こる。コース造成に拍車がかかり、プロゴルフ界も活性化。「日本オープン」、「日本プロ」、「関西プロ」、「関東プロ」、「関西オープン」、「関東オープン」の公式戦6試合だけだったが、続々と企業スポンサーが大会開催に名乗りを上げた。

アジア各国を転戦するアジアサーキットは10試合を数え、63年には公式戦の優勝者だけが出場できる(最大6人)賞金総額250万円、優勝賞金100万円のビッグマネー大会「日本シリーズ」もスタートした。70年には、9試合しかなかった大会が一気に23試合に増え、賞金総額は1億1000万円にアップ。71年は34試合で総額2億2000万円、72年には47試合となり、総額3億3000万円とかつてない盛況に。73年のツアー立ち上げに向けて、プロゴルフ界が加速した。

尾崎将司のプロ1年目は54万円 2年目で史上最高額の賞金王へ

1967年は、海外メジャー「マスターズ」で15位に入った陳清波(台湾)が、当時アジア人最高の賞金を手にして賞金王に。68年は、細石憲二がアジアサーキットの「マレーシアオープン」で優勝するなどし、ドル仕立ての高額賞金で賞金王の座に就いた。そして、70年にプロ入りした尾崎将司が一気に花開く。71年に5勝を挙げて1812万5000円、72年は10勝として2998万8000円といずれも史上最高額を更新し、賞金王として2年間、君臨した。

なお、尾崎のプロ1年目(8試合)の獲得額は54万5000円だった。6月のデビュー戦「関東プロ」は3位発進としながら19位に終わったが、続く「関東オープン」では堂々の3位フィニッシュ。その圧倒的な飛距離でゴルフファンを引き付け、早くも“ジャンボ”のニックネームが付けられた。ルーキーだけが出場する「美津濃新人」4位、「日本プロ」22位。「日本オープン」は予選落ちしたが、トッププロだけが出場するスポンサー大会「グランドモナーク」、「オールスター」、「ロレックス」では、当時全盛の和製ビッグスリー、杉本英世、河野高明、安田春雄と互角に渡り合った。国内開催のプロゴルフ大会は9試合しかなかった時代。驚異のルーキーはその実力に加え、長身と甘いマスクでゴルフ界をけん引し始めた。

そして1973年、いよいよツアー制度がスタート。尾崎は国内男子ツアーの初代賞金王に座った。当時はプロ4年目の26歳。賞金ランク対象大会の26試合を戦い、公式戦の「関東プロ」、「太平洋マスターズ」など5勝を挙げ、4381万4000を記録した。海外でも大活躍。2回目の出場となった「マスターズ」は、初日2位につけるなど8位。他にアジアサーキット7試合と「ハワイオープン」(15位)でプレーし、国内外を合わせて37試合に出場。24試合でトップ10入りした。(武藤一彦)