国内男子ツアー

ジャンボ尾崎が陥ったスランプ/ゴルフ昔ばなし

2018/01/31 07:30
取材協力/Restaurant CHIANTI

20代のプレーヤーがプロツアーをけん引する昨今のゴルフ界。若い力にスポットライトが当たるいまだからこそ、後世に残したいストーリーがある。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏で20世紀の逸話を掘り起こすシリーズ「ゴルフ昔ばなし」。第2回は尾崎将司選手に関する続編です。

スポーツ紙が命名した「ジャンボ尾崎」はプロ転向後、破竹の勢いでスーパースターになります。しかし、30代前半で未曽有のスランプに陥りました。その要因と、苦難を乗り越えるべく取った行動を紐解きます。

■ ジャンボ尾崎とOBの恐怖

―現行のツアー制度が施行されたのが1973年。尾崎のプロ4年目のことでした。同年に5勝を挙げ初代賞金王に。日本男子ツアーはまさにジャンボの歩みとともに発展しました。ところが1980年までに24勝しながら、81年から85年までは3勝にとどまりました。

1984年10月の「Sports Graphic Number」 はスランプ中の尾崎将司の特集を組んだ(c)文藝春秋、Sports Graphic Number

宮本 僕がゴルフの写真を撮り始めたのは1983年頃でした。この年は青木功さんにとってはゴールデンイヤー。ハワイアンオープンで日本人として初めて米ツアー優勝を果たし、日本では4勝した。トミー(中嶋常幸)もすばらしい活躍をしていた時。年間8勝を挙げた。そこへきて、ジャンボさんは…ひどいスランプの時期だった。
三田村 尾崎は当時を振り返ると、「体に毒素が回っていた」という表現をしていた。おかしくなったのは元を正せば30歳の頃から。1984年、85年頃まで続いた。1Wショットがとにかく曲がる。メディアは彼のOBの数を必死に数えるようになった。あるスポーツ紙では、紙面の端の欄にOBをカウントする表を入れるようになったんだ。彼はとても繊細な人間。その「年間のOBが何発」という文字を見て、先入観が抜けなくなったんだ。
宮本 僕は三田村さんがジャンボさんにインタビューをした『Sports Graphic Number』(1984年10月20日号、文藝春秋)が今でも記憶に残っているんだよね。総合スポーツ誌では、ゴルフの特集は決して多くないけれど、当時大スランプのジャンボを特集した。確か…見開きの写真が自宅の書斎なんだ。書籍やクラブでいっぱいになっていて。その写真に僕は、何杯でもゴハンが食べられるくらい驚かされたよ(笑)

■ ジュンクラシックでの決意

三田村 当時、尾崎が自分のゴルフについて「マスコミの皆さんに意見を聞こう」と言い出したことがあった。記者や編集者をジュンクラシック(1978年から99年に開催された男子ツアーの一大会)の期間中に集めてね。
宮本 ジュンクラシックは選手もメディア関係者も同じところに泊まって、選手と報道陣の距離を縮められる試合だったんだ。
三田村 ジャンボを前に、みんなが評論家になるの。多くが「ジャンボは3Wでも十分に飛距離が出るじゃないか。1Wを持たずに、短いクラブで刻めば良い」という意見だった。ひとしきりそういう話の後、突然「三田村はどう思ってんだ?」と聞かれて。僕は「今のジャンボが年間でOBを100発打っても興味はない。『これからどうするのか?』ということだったら書きたい」と言った。そうしたらジャンボは「面白いな…」って。そして「日本では、一度堕ちたプロスポーツ選手は二度と這い上がれないという風潮がある。そうでないことを見せてあげよう。おれはもっと“デカいゴルフ”を目指す」と続けた。
宮本 他のスポーツではキャリアの短さもあって、苦しんだ選手が2回、3回と復活するのはなかなかあり得ない。あれだけのスーパースターが地獄に落ちて、這い上がることはまずあり得なかった。でもね、ジャンボさんはスランプの間もとにかく人気があった。彼の復活劇は日本のスポーツ界においても、すごいサクセスストーリーだと思う。

尾崎将司が特集された「Sports Graphic Number」(c)文藝春秋、Sports Graphic Number

三田村 ジュンクラシックの後、週に何度かジャンボの家を訪ねることになった。彼はとにかく勉強家。ふたりでずっと黙って話すこともないんだけど、いつも何かを考えている。ある日「ジャンボ、『忍耐』という言葉があるんだけど…」と切り出したら、「ちょっと待て」と言って、引き出しを開けて何かを持ってきた。リールのついた大学ノートが4冊、5冊と出てくる。中には一行も無駄なく、ジャンボ自身の考えが書いてあった。そこから「忍耐とは…」と始まるんだ。格言のような言葉だけでなく、トレーニングをする様子をイラストにもしてあった。ジャンボは絵が上手い。本棚には『肉体生理学』とか『ストレッチング』といった書籍が並んでいた。中には全部、赤線がぎっしり引かれている。当時はゴルフ用のトレーニングがまだ確立されていない時代。ゴルファーの体がどうあるべきか、というのを彼は自分で考えていた。自ら勉強をして、それをオフに実際にやってみようというのが、ジャンボ軍団(実弟の健夫直道をはじめ飯合肇らとともに研鑽したグループ)の始まりだった。
宮本 今はプロフェッショナルのトレーナーやコーチがいるけれど、当時はスター選手でも専属のサポートスタッフがいない時代だったんだ。

■ スランプ中のジャンボ尾崎が米国へ

三田村 めちゃめちゃスランプの時に「おれ、アメリカに行くぞ」と言ったことがあった。何もこんなに最悪の時に…と思ったけれど、おもしろいからついて行った。1980年、日本ツアーの開幕前のこと(尾崎は79年に1勝も挙げられなかった)で、フロリダでの2試合に出場した。「ジャッキー・グリーソン・インベラリー・クラシック」(現ザ・ホンダクラシック)で、ある日のラウンド後に練習場にいたら、そこにプレーを終えた直後のジャック・ニクラス(メジャー通算18勝)が走り込んできた。ニクラスがボールを打ち始めると、ジャンボは真後ろに座って、ずっと彼を見ていた。1時間以上もね。
宮本 ジャンボさんはニクラスのスイングで、クラブのインパクト後の抜け方を研究した。ターフ(芝)が取れた後の、ディボットの深さをチェックしたという。
三田村 真っ暗になったころ、ニクラスはヘリコプターで自宅に戻っていった。ジャンボに「ニクラスは今日『69』で回った」と伝えると、彼は「こういう姿勢がある限り、彼はずっと勝ち続ける」と言った。そして「ニクラスのフェードは腰のひねりで、腰の回転で打っている。小手先で打っていないな…」とつぶやいたんだ。

尾崎は1986年に4勝、87年に3勝を挙げると、再び栄光時代を築いていきます。その中でも大きなターニングポイントになったのが、88年の「日本オープン」でした。東京ゴルフ倶楽部で行われたナショナルオープンで優勝。70cmのウィニングパットの直前、手が震えて仕切りなおした伝説のシーンを次回、振り返ります。