5年目の3・11 岩田寛、おろしたてのポロシャツと復興への思い
「難しい、ホントに難しい…。うーん……なんて言ったら良いのか…」
米国男子ツアー「バルスパー選手権」が行われた今週のはじめ、岩田寛は普段以上に言葉を選ぶのに苦労していた。何度も、何度も思いを巡らせながらも、心境をうまく表現できない。5年目の“あの日”を迎える気持ちを問われたときのことだった。
岩田が宮城県仙台市出身であること、そして東日本大震災にまつわるエピソードは多くのゴルフファンが知っている。2011年の3月11日、午後2時46分。彼は揺れを感じない上空にいた。合宿地である沖縄から、宮城に帰る機内だった。搭乗していた航空機は旋回して那覇に戻り、仙台空港の駐車場に置いていた愛車は津波で流された。
その後、岩田は国内ツアーの開幕までに地方大会を渡り歩き、稼いだ賞金を被災地の義援金に充てた。勇敢な逸話だが「最初は、本当に僕は何もしなかったんです」と明かす。「最初は何もやりたくなかった。ゴルフも、何もしたくなくなったんです。その当時は仙台に戻らなかったし。でも、友達から『やらなくちゃダメだ』って連絡が来て。僕は、それで救われたんです」。ひとりで立ち上がったわけではない。窮地で顔を上げさせてくれた恩人がいたという。
地震の瞬間的な恐怖は味わっていない。ただ、故郷はたちまち被災地になった。
「僕よりもずっと大変な思いをしている人はいっぱいいる」「5年も経ったのか…と思うけど、何も変わっていない地域もある。仙台の中心部はもう大丈夫といえるくらい復興しているけれど、変わっていないところは変わっていない」「瓦礫が撤去されていないところもあるはず。それに福島なんかはもっと大変じゃないですか…」
口下手な男だ。ポツリ、ポツリとつぶやくように話すが、うまくまとまらない。いま、自分にいったい何ができるのか。軽率なメッセージは、余計な誤解を生むかもしれない。胸に渦巻く不安は、冒頭の「難しい」というフレーズに続く言葉をちゅうちょさせた。
しかし岩田は“あの日”への思いを別の方法で表現した。10日の第1ラウンドのあと、何かを確認するように、おもむろに周囲に聞いた。「こっちは『迷彩』大丈夫ですよね?」―――
翌日11日、岩田はおろしたてのポロシャツに身を包んでコースに出た。ホワイト、グレー、ブラックのモノトーンカラーが織り成すカモフラージュ柄。かねてメーカーにお願いしていたモデルだった。
被災地に、愛すべき故郷に、復興への道筋をつけてくれている、日本の自衛隊に対するリスペクトからだった。
もちろん政治的な意味合いを連想させるつもりはない。「震災が起きたとき、日本にいるときからずっと考えていた」という。日本には「戦争をイメージさせる」「伝統や格式を損なう」といった見方から、迷彩柄の服がドレスコードに抵触するゴルフ場があり、男子ツアーでも着用できなかった。
5年目の3・11。30代半ばにして辿り着いた米ツアーの地で、やっと表現できた感謝の気持ちだった。
上位争いはできなかったが、2連続バーディで終えた1週間。「粘れたかどうかは分からないけれど…震災があった週に(予選を通過し)4日間できて良かったです」と結んだ。岩田寛は主戦場を移したいまも、遠く離れた故郷への思いとともにある。(フロリダ州パームハーバー/桂川洋一)
■ 桂川洋一(かつらがわよういち) プロフィール
1980年生まれ。生まれは岐阜。育ちは兵庫、東京、千葉。2011年にスポーツ新聞社を経てGDO入社。ふくらはぎが太いのは自慢でもなんでもないコンプレックス。出張の毎日ながら旅行用の歯磨き粉を最後まで使った試しがない。ツイッター: @yktrgw